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わたしにとっての父親という存在

 風が次第に冷たくなっていく。


 尚志さんとはたまに会ったりしている。千春とは付き合っているんじゃないかとも言われたが、実際そんな話になったことは一度もない。

 彼がわたしを妹の友達としてみているのは分かっていたのだ。


 映画の話もあれ以降は聞かなかった。あれから千春もその話題に触れることもなかったのでわたしも触れなかった。

 ダメだったから何も言わないのだと結論付けていた。



 宿題を終え、お風呂に入ろうとしたとき、わたしの電話が鳴った。発信者は千春だ。


「京香を使うって」


 電話をとったわたしの耳に、千春は弾んだ声が届いた。

 わたしは状況が理解できずに、すぐに言葉が出てこなかったのだ。


「だから、京香があの映画に出られるの」


 わたしはただ千春の言葉に戸惑うだけで、理解できていなかった。


「あとはお母さんに話をしないとね。許可を得ておかないといけないし。後は伯父に会わないといけないと思うけど大丈夫?」


 母親から許可をもらえるかどうか心配しているのだろうか。


「それは大丈夫だけど。本当なの?」

「大丈夫って。詐欺とかじゃないから安心して」

「そうじゃなくて伯父さんは選ばないと思っていたよ。浮かない表情を浮かべていたし」

「でも、京香を選んだ。だから大丈夫よ」


 彼女の言葉を聞いていると、もしかすると千春が説得してくれたのかもしれない。

 彼にとって千春はそれほどの存在なのだ。

 そのとき、玄関が開く音が聞こえてきた。


「お母さんが帰ってきたみたい。話をしてみるよ」

「頑張ってね」


 わたしは電話を切った。部屋から出ると、洗面所から水の流れる音が聞こえてきた。


 洗面所に行くと、母親の後姿に語りかける。


「わたし、映画に出ないかっていう話があるの」


 母親は振り返ると、疑わしそうにわたしを見る。


「騙されているんじゃないの?」

「そんなことないよ。友達の知り合いが映画監督をやっていてね、その人の映画にって」


 お母さんの返答はもっともだ。わたしが逆の立場なら、子供の可能性を信じていたとしてもそう言うだろう。千春や尚志さんがわたしを騙すわけがない。


「一度会って話を聞いてほしいの。それでダメなら断る。お母さんが好きだった映画あるでしょう。果歩って映画」

「果歩……?」


 母親は眉間にしわを寄せてわたしを見た。


「もしかしてその監督って」

「成宮、なんて言ったかな」

「成宮秀樹」


 抑揚のない声だった。


「そう! そんな感じだった。だからお母さんもその人に会って」


 母親の手がわたしの頬に触れる。

 洗ったばかりだからだろうか。帰ってきたばかりだからだろうか。

 彼女の手は冷え切っていた。


「京香が選んだなら私は反対しないわ。でも、その人の連絡先を教えてくれる? あなたと一緒に会う前に話をしておきたいから」


 彼女は唇を噛み締めていた。

 わたしはどうして母親がそんな表情をするのか分からなかった。

 わたしは千春から聞いておいた連絡先を母親に伝えた。

 千春に母親が先に連絡をすると教えておけばいいだろう。


「少しだけ返事をするのは待っていてくれる? できるだけ反対はしないから」


 わたしは彼女の言葉に頷いた。



 一ヵ月後、母から呼ばれた。

 彼女はまっすぐな瞳でわたしを見据えた。


「頑張ってね」


 彼女は肩をすくめると微笑んだ。


「いいの?」


 彼女は頷く。


「あなたの人生だから、好きなように頑張りなさい。でも、自分で決断したことだもの。人のせいにしたらだめよ。うまく行かなくてもそれは自分の責任。そう思えるなら頑張りなさい」


 わたしは頷いた。


「ありがとう。お母さん」


 一ヶ月も何も言われなかったのでダメだと思っていた。

 わたしは母と成宮秀樹の間でどんな話が行われたのか全く知らなかったし、知る術もなかったのだ。

 ただ、このときは自分の夢が叶うことがただ嬉しくてたまらなかったのだ。


 数日後、わたしは母親と一緒に事務所に呼ばれた。

 千春や尚志さんも既に到着していた。


 この前事務所に来たときよりも物がすっきりしていて、エレベーターもきちんと使えるようになっていた。

 千春はわたしの母親を見て、なぜかはしゃいでいるように見えた。

 尚志さんは対照的に神妙な顔を浮かべていた。

 成宮秀樹はなんともいえない顔を浮かべていた。淡々としているようにも見えるし、困惑しているようにも見える。


 書類に目を通し、母親が細かい事項を確認していく。それに成宮秀樹や尚志さんが淡々と答えていた。

 契約をすませると、母親は「話すことはもうない」とさっさと帰っていってしまった。

 わたしと千春、尚志さん、そして成宮秀樹が残された。


「京香のお母さん綺麗だよね。京香はお母さん似だよね」


 千春はうっとりとした表情を浮かべ、そんなことを言っていた。


「そうかな」

「そうだよ。ね、伯父さん?」


 成宮秀樹は何も言わなかった。


「俺たちは外にいるよ」


 尚志さんはそう言うと、千春の手をつかむ。


「何でお兄ちゃんが怒っているのよ」


 千春は不満そうに言った。


「怒ってないよ」

「もしかして京香の前にいい人が現れるかもしれないのが嫌なの? 新しい出会いとかありそうだもんね」


 彼女はからかうように言った。

 わたしは自分の顔が熱くなるのが分かった。


「は? ばかじゃねーの?」


 そんな声が聞こえてきたが、わたしは尚志さんを見ることができなかった。

 恥ずかしいのと、彼の表情を確認するのが怖かったのだ。


「わたし知っているんだもん。お兄ちゃんが京香のこと好きだって」


 千春は妹の友人として、もしくは友人として好きだと言っているわけでもないのだろう。

 そう理解し、顔が赤くなるのが分かった。

 もちろん、千春の思い込みの可能性も分かってはいる。


「千春」

「本当のことでしょう?」

「分かったから、とりあえず外に出るぞ」


 尚志さんはそのまま千春を引きずるようにして、外に連れて行った。

 部屋が静寂に覆い隠された。

 成宮秀樹は軽く咳払いをした。


「繰り返しになるが、これからのことを説明しておく」


 彼から一通り説明を聞く。その話によれば撮影をするのは来年わたしが高校を卒業してから始めるとのことだった。大学への進学はどちらでもいいと言ってくれた。

 今すぐとならなかったのは、彼らの事情もあると思うが、わたしの高校がいろいろ厳しく、アルバイトも禁止されているというのもあったのかもしれない。


「他に質問は?」

「撮影とは直接関係ありませんが、いいですか?」

「何だい?」

「母と知り合いですか? 何か話でもしたんですか?」

「君の母親、ね」


 彼は苦笑いを浮かべる。


「何ですか?」

「いや。なんでもない」


 結局、彼はわたしの質問にはっきりとは答えてくれず、部屋を後にすることになった。

 外に出ると千春が待っていてくれた。

 彼女はわたしと目が合うと、手を振る。


「待っていてくれてありがとう」

「本当はお兄ちゃんに待っていてもらおうと思ったのに、先に帰っちゃったのよ」


 千春は肩をすくめる。


「千春、あまり尚志さんを困らせたらだめだよ」


 わたしは千春をたしなめた。


「そんなに怒らないでよ。本当のことだもん」

「尚志さんがわたしのことを好きなわけないでしょう?」

「好きだと思うよ」


 彼女はそう胸を張っていったあと、わたしを見て肩をすくめた。


「この話は一度、これで終わりかな。映画、頑張ってね」

「ありがとう」


 千春は目を細める。彼女は視線を足元に向けると、首を横に振った。


「京香は自分のお父さんのこと知らない?」

「わたしのお父さん?」

「どんな人なのか知らないのよね?」


 千春は確認するように言った。


「うん。全くね」

「お父さんに会いたい?」


 千春は首をかしげ、わたしの顔を覗き込む。


「どうだろう。どっちでもいいかな」


 お父さんのことなんて考えたこともなかった。

 それは紛れもない本心だった。母親と結婚しなかったということは、多分結婚できない事情があったのだろう。

 妻子がいたり、母親とのことは遊びだったり。だが、母はわたしを産んだ。だから、本当の父親に会うことで母親が苦しむ可能性があるのなら会いたいとは思わなかった。


「そんなもの?」

「一番大事なのはお母さんだから、お母さんが会いたいと言うなら会いたいかな」


 千春は寂しそうに微笑んでいた。


 家に帰ると母親は夕食の準備に取り掛かっていて、わたしを見ると、「お帰りなさい」と笑顔で告げた。

 彼女はいつでもわたしに悲しい顔さえ見せることもなかった。


「京香がデートをしていた男の人は成宮秀樹の息子さん?」

「違うよ。彼の弟さんの息子さん。甥。で、その隣の女の子がわたしの友達の成宮千春さん。彼女は姪かな」


 彼女はそう、と目を細める。

 心なしか安堵したように見えた。


「彼女、果歩の主演していた人によく似ているわね。もしかして娘さんなの?」

「よく知っているね。わたし言った?」

「あのときは話題になったからね。映画で人気が出たのに、突然消えるように去っていったから」

「そんなに人気あったの?」

「それなりに話題になっていたのよ。私の周りでは特にね。綺麗な人だったからね。彼女も女優になるの?」

「千春は演技が上手なのに、別のことがやりたいんだって。普通に暮らしたいみたい」

「そうなの? 意外」


 わたしは頷く。そして付け加えるようにして言った。


「千春がお母さんのこと綺麗だって言っていたよ」

「そんなことないわよ」


 お母さんは否定しながらも悪い気はしなかったのか、嬉しそうに微笑んだ。


 部屋に戻ると、携帯の電話番号を表示した。

 尚志さんの電話番号だった。同時に千春の言っていたことを思い出していた。

 いつもなら簡単に電話できていたのに、彼の電話番号を押すことができなかった。


「また今度電話をしたらいいかな」


 わたしはそう言い聞かせ、自らを納得させると、電話を机の上に置いた。

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