わたしの好きな人
外よりも暗い空間に水槽が各所に設置されている。室内を照らすライトがその水槽に映り、少し幻想的な雰囲気をかもし出す。
水族館の中はとにかくカップルが多かった。手をつないでいるカップルを見ると仲むつまじくて羨ましい。
そのとき、後方からやってきたカップルの肩がわたしとぶつかる。
わたしはその場でよろけそうになってしまう。
「大丈夫?」
尚志さんがわたしの肩に手をまわし、よろけそうになったわたしの体をしっかりと支えてくれた。
「大丈夫です」
尚志さんにつかまれた左肩が熱い。
尚志さんがわたしの肩をつかんだままということに気づいたのだろう。謝ると、わたしの肩から手を離す。
嫌なわけではないのに、なぜか妙に意識してしまう。
「でも、本当に人が多いな。休日の日にわざわざ出かけなくても……」
尚志さんがわたしを見た。
「別にそんなつもりじゃなくて」
わたしと一緒に出かけたのを後悔しているのではないかと思ってしまった。
「いえ。尚志さんはどこかに出かけるのが嫌いなんですか?」
「正直、あまり好きじゃないかな。人が多いのは苦手なんだ」
「人見知りとかしないし、外に出かけるのが好きなのかなって思ってた」
彼は肩をすくめる。
「そんなことはないよ。家でのんびりしているほうが好きかな」
「尚志さんの趣味って何ですか?」
「俺には敬語使わなくていいよ。あまり年上面する気もないし。本読んだり、空を見てぼーっとしたりとかそんなところだからね。たいした趣味じゃない」
「わたしも本を読むのは好きです」
彼との共通点を見つけ、弾む気持ちでそう告げた。
「どんな本?」
「少し昔の本が好きです」
どうしても図書館で借りることが多いからか、一昔前の本を読むことが多かった。
「うちには腐るほど本があるから、ほしい本があったら貸すよ。といっても新しい本は千春が買ってきたものばかりだから君の趣味に合うかは分からないけど。図書館と違って返却期限がないのは便利だと思うよ」
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げた。
「君はこういうところ好きなの?」
尚志さんは辺りを見渡す。
「あまり行ったことないから楽しいかも。ここに来たのも始めてだから」
「そっか」
尚志さんがわたしの肩をぽんと叩く。
「それなら今日、その分楽しまないとな。最初の記憶が最悪になったら悪いよな」
「そんなことないです。楽しいですよ」
尚志さんと一緒にいられるだけで楽しいからだ。
今までほかの誰かと一緒にいて、そう思うことは一度もなかった。
ふと千春の言っていた人を好きになったことがないだろうといっていた言葉が頭を過ぎる。
あのとき、そうだと認めた。でも、今は即答できない。
わたしはこの人のことが好きなのかもしれないと思ったためだ。
いつからかは分からない。だが、彼と過ごした決して長くはない時間が、わたしの今の気持ちを作り上げていったのだ。
彼はわたしの気持ちに気づいていないのだろう。
不思議そうな顔をしていた。
「何か希望はある? いい思い出を作るための」
尚志さんはわたしの顔を覗き込む。
その顔にドキッとして、心持ち後退していた。
わたしはその答えを探すために辺りを見渡した。
手をつないでいて、楽しそうなカップルの姿が映った。
あんな風に過ごせたらどんなにいいだろう。
それを彼に言ったら嫌がられるかもしれない。
そう思ってもタメ元で言ってみることにしたのだ。
嫌がられたら冗談だと言ってしまえばいい。
「手、つないでいいですか?」
彼はそんなことをわたしが言い出すとは思わなかったのだろう。目を見開いた。
数秒後、優しく微笑んだ。
「いいよ」
彼はわたしの手をつかんでくれた。
温かい手に胸が高鳴った。
彼のやさしさに甘えて卑怯な気はするけど、今だけはこのぬくもりを感じていたかった。
わたしたちは昼過ぎに水族館を出ることにした。
中では人が多くてご飯が食べられなかったため、外に出て、ご飯を食べようということになったのだ。
近くのファミレスに入ると、定員が奥の席に案内してくれた。
夏休みなのか、休日だからなのか、人が多かった。
「あの人、かっこよくない?」
窓際の席に座ると、そんな声が聞こえてきた。その方向を見ると尚志さんと同じくらいの年ごろと思われる女性が尚志さんを指さしていた。
「一緒にいる子、彼女かな」
「じゃない? 兄弟には見えないし」
「残念」
そのとき店員が水をもってわたしたちの席まで来る。実際は違うけど、わたしと彼は恋人同士に見えたのだろうか。そう思うと嬉しかった。
わたしたちはそこで時間をつぶし、あとは公園や適当なお店を巡り、家に帰ることにした。
わたしは尚志さんに家の傍まで送ってもらうことになった。
「今日はありがとうございました」
マンションの前で足を止め、頭を下げる。
生まれて始めてのデートは楽しい思い出になった。
「こっちこそ楽しかったよ」
彼は満面の笑みを浮かべている。
社交辞令の可能性があることは分かっている。それでもわたしは勇気を出して彼に問いかけることにした。
「また誘っていいですか?」
「え?」
彼はわたしを見る。
「一緒にいろいろ出かけたいなって」
「でも千春を誘ったほうが楽しいと思うよ」
「わたしは尚志さんとも出かけたいです。ダメですか?」
千春と出かけても楽しいだろう。だが、わたしは彼ともっと一緒にいたいと思ったのだ。
彼は不思議そうに肩をすくめていた。
何で自分を誘うのか分からないとでも言いたそうだった。普通の人になら愛の告白だと思われてもおかしくない言葉なのに。
彼を好きになった子たちはそんな感じで彼に扱われて、離れて行ったのかもしれない。
こんな関係を続けていくのも悪くないとは思っていた。少なくとも気持ちにさえ気づいてくれないなら、告白しない限り失恋する可能性は低いからだ。
「いいよ。でもあまり遊びすぎないようにな。来年受験だろう?」
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げた。
「今はもう補習休みだっけ?」
わたしは頷いた。
お盆の前後には補習が十日ほど休みになり、ちょうどその時期に差し掛かっていた。
「時間があったら遊びに行こうか」
わたしは何度も頷いた。
「明日、本を借りに行っていいですか?」
彼はわたしの言葉に笑顔で頷いていた。
家に帰ると細身の人の姿が台所の中にあった。
お母さんが先に帰っていたのだ。
「遅くなってごめんね」
「たまにはいいわよ。楽しかった?」
今日、水族館に行くということは母に伝えておいたからだ。
「楽しかったよ」
「でも京香がデートね」
母親は嬉しそうに微笑んだ。
「デートって、どうして知っているの?」
「見ていたら分かるわよ。それにさっき買い物に行こうとしたら京香と男の人が歩いているのを見たから。あの人と一緒にいったのよね。素敵な人ね。あの人と付き合っているの?」
「彼氏じゃないから。友達のお兄さんなの」
「そうなの? もし彼氏になったらそのときは紹介してね」
わたしは母親の言葉に頷いた。
わたしと尚志さんが恋人同士になるなど、ありえないことだし、想像だけで満足しておこうと心に決めた。




