二人きりのデート
高校は夏休みに入っていた。だが、夏休みといっても言葉ばかりで、毎日のように補習がある。本当なら嫌だと思う補習も、わたしの日常を忙しくするのに一役買っていて、少しほっとしていた。
あれからわたしは今まで以上に勉強していた。
あのときのことを思い出し、何ともいえない気持ちになるが、勉強に打ち込める環境があるだけ幸せだと思ったのだ。
ペットボトルのお茶を飲みほし、強い日差しを手の甲で遮った。
わたしの体に長方形の影がかかる。顔をあげると千春が水族館のチケットを手に立っていたのだ。
彼女はわたしの隣に座った。
「これあげる」
語尾にハートマークがついていそうな甘い声を出す。
「ありがとう」
彼女から一枚のチケットを渡された。何となく千春はチケットが一枚しかないからと行くような子ではなかった。興味がないのだろう。わたしは逆に一人でこんなところに行くのはちょっと気が進まなかった。
「一緒に行かないよね?」
「お兄ちゃんがチケット持っていたから一緒に行けば?」
その言葉にドキッとする。
あの日以来、彼に会うことはなかったが、彼のことを考える機会は増える一方だ。
「尚志さんの連絡先も知らないし」
「聞いてないの? 全く」
わたしは千春から彼の番号やメールアドレスを教えてもらった。
「迷惑じゃないかな」
妹の友達というだけでわたしは彼とは親しくない。
「お兄ちゃんに会いたくないの?」
「会いたいけど」
「それなら電話しなさいって。大丈夫。京香に暴言を吐かせないからね」
千春のこの自信はどこから来るのか全く分からなかった。
その日の夜、わたしは尚志さんに電話をすることにした。最後のボタンを押すと、すぐに呼び出し音が聞こえ、不思議そうな尚志さんの声が耳に届く。
わたしは深呼吸して、言葉を紡ぎだす。
「千春の友達の京香です。覚えていますか」
「京香さん? どうかした?」
どう聞けばいいだろう。今更ながらに迷惑かもしれないと臆してしまい、うまく言葉が出てこない。
「水族館に行きませんか? 一枚だけ手元にあって」
「水族館のチケット? そういえば、昨日、千春からもらったけど。あいつ一枚しかないからって俺によこして」
「千春からもらったの?」
わたしはそのとき千春の狙いが分かった気がした。
わたしたちをデートさせようと思ったのだろう。
「いるならあげるよ。どうせ使わないし、友達とでもいってきたら?」
わたしは息を吸い込み、勇気を出して言葉を発した。
「一緒に行きませんか?」
驚いたような声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「別に興味もないし。千春と一緒に行けば? あいつに渡して」
そのとき物音とともに電話が切れた。
わたしは通話時間の表示された携帯の液晶画面を見る。
「切れちゃった」
千春にあんな感じで言われたからか、尚志さんは断らないものと思っていただけにちょっとショックだった。
落ち着いて考えたら断られても仕方ないとは思う。
わたしの携帯に電話がかかってきた。
発信者は千春だった。
「もしもし、ごめんね。バカな兄が変なこと言って。今度の日曜日の十時にそこで待ち合わせでいい?」
千春が強引に兄を説き伏せたのだろうか。尚志さんに悪い気がしてきた。
「無理に行かなくても。一人で行ってくるよ。気にしないで」
「そんなこといって京香に何かあったらどうするのよ。知らない男にナンパされたり、誘拐されるかもしれない」
千春の声が少し小さくなる。受話器から口を遠ざけたのだろうか。彼女はお兄さんにいっているんだろうか。
「断るから大丈夫だよ」
千春がわたしの話を聞いているか疑わしい。
「いいってさ。だからその日に待ち合わせね」
「うん。分かった」
何となく拒めなかった。尚志さんには迷惑をかけてしまったかもしれない。
そう思うと、罪悪感でいっぱいになった。
その日は空が遠くまで見えそうなほど、綺麗な青空で、雲はあるものの、雨が降りそうな雰囲気は全くない。
わたしは水色の膝丈のワンピースのすそに触れ、汗をぬぐった。
今日もかなりの暑さだ。
もう少しで水族館につく。本当に尚志さんは来てくれるのだろうか。
そう思い、水族館の内部を仰ぎ見ると、憮然とした表情を浮かべている人の姿を見つけた。
あんな強引にいくことになり、おこっているのだろうか。
わたしは不安に思いながら、自分の影が彼の足に届く距離まで近づいたときに声をかけた。
尚志さんの視線がわたしに投げかけられる。
「早いね」
彼の強張っていた表情が穏やかになる。
「尚志さんも早いですね」
今は待ち合わせの時間の十五分前だった。
「今日はごめんなさい」
わたしは頭を下げる。
「俺もごめん。てっきり君は千春と一緒に行きたいのかなと気を使ったつもりだったんだ。俺と一緒に行っても楽しくないかなって思って」
「そんなことないです。すごく楽しみでしたから」
彼を無理に連れてきた形になったとしても、楽しみだと思ってしまう。
「千春に何か言われました?」
彼は言葉につまり、わたしから目をそらした。
やけに歯切れが悪かった。
「千春もわたしに気遣ってくれたんだと思います。本当にごめんなさい」
「そうじゃなくて、人の気持ちが分からないのかって怒られただけだから」
彼はそこで言葉を切る。
「人の気持ちって」
「君が俺を誘ってくれたのに、そういうときに他の人の名前を出すのは失礼だろってさ」
千春らしい言葉かもしれない。
「でも迷惑だったらかまいませんよ。興味ないなら別の場所でもいいし」
「普段出歩かないから遊ぶ場所も知らないし、よく分からない」
「そうなんですね」
意外な気はした。彼だったらいくらでも女の子から誘いはありそうなのに。そう思って自分の胸が痛んだ。わたしをからかっていた彼の印象と今日の彼の印象は別人のようで、一人の身近な青年のように感じられた。
「それなら、チケットを無駄にしてしまったら悪いからここに入りましょう」
彼はわたしの提案を受け入れてくれた。
千春はこのチケットをどうしたのだろうか。
その疑問はわいてくるが、わたしは尚志さんと一緒に奥に入ることにした。




