途絶えた将来への夢
わたしたちは近くの喫茶店に入った。しかし、さっきから彼はコーヒーを飲みながら外を見るだけで、物憂げな表情を浮かべている。彼の表情は綺麗だが、それは遠くから見たときに話だった。本当はわたしと同じ時間を過ごしたくなかったのではないかという気がしてきてしまう。
「尚志さん」
彼の視線がわたしに向けられる。
彼は目を細めていた。
「何?」
「あの」
わたしといるのはつまらないですか?
さすがにストレートすぎる。それは却下だ。
いい天気ですねとか言うのはわざとらしい。
わたしがそんなことを黙々と考えていると尚志さんが口を開く。
「ごめん。俺が暗い表情を浮かべているから、君に余計なことを考えさせて」
彼はまた悲しそうに微笑んだ。
彼がそんな表情を浮かべていると、わたしの胸の辺りが締め付けられるように苦しくなる。
「何かあったんですか?」
「昔のことを思い出して、ね」
「千春のこと?」
そう思ったのはある種の直感のようだった。
「そう。あいつよく泣いていたんだよね」
「千春が?」
「多分、演劇が嫌いなわけではないとは思うんだ。最初は楽しそうだった。誰かに褒められたとか、目を輝かせながらそう言っていた。いや。この話はいいか」
彼は自分で会話を打ち切った。
「何か聞きたいことあるなら聞いていいよ。あいつには聞けないかもしれないから」
なんとなく千春の話題を持ち出しにくかった。
何か差し障りのない話題はないだろうか。わたしは必死に考えを巡らせる。しかし、男の友達など多くない。どんな話をしたら男の人が乗ってくるのか分からなかった。
女の子同士でする会話ってなにがあるだろう。女の子同士で一番盛り上がるのはやっぱり恋愛の話だろう。後から考えたらこのときのわたしはものすごく混乱していたのだろうが、このときのわたしはいっぱいいっぱいだったのだ。
「尚志さんは恋人っていますか?」
彼は目を見開いてわたしを見ていた。
彼の瞳にわたしの姿が映るのを確認したときに、自分が何を言ったか理解した。
「口説いてる?」
「違います」
強い口調で否定してしまった。
彼は肩を震わせて笑い出す。
これでは動揺しているのがバレバレだった。よりによって彼に何でこんな変なことを聞いてしまったのだろう。
だいたい彼には彼女がいてもおかしくない。こんなにかっこいいのに。
そんなわたしの気持ちを打ち消すような言葉が聞こえてきた。
「彼女はいないよ」
「本当に?」
ちょっと意外だった。この人なら女の子は放っておかないような気がしたからだ。
千春も尚志さんも顔立ちが整っていることもあり、美的感覚が普通とずれていて、ちょっとやそっとじゃかわいいと思わないのかもしれない。
「人って苦手なんだよ」
尚志さんは寂しそうに微笑んでいた。
彼も母親に関することで嫌なことがあったのだろうか。
「一つ聞いていいですか?」
「彼女の話?」
彼は笑いながらそう言う。
「違います」
「分かっているって」
絶対に遊ばれている。
「尚志さんは母親に演技をさせられなかったんですか? 千春みたいに」
「させられたよ」
彼は肩を大げさにすくめる。
「でもそのうち終わったよ。俺にはむいていない、と分かったんだろうな。でもその分、千春一人に期待が向けられたっていうか。そのときの千春は痛々しかった。無理に期待に応えようと頑張っていたって分かったから」
わたしは千春の笑顔を思い出していた。
「そしたら千春にはこの話題は触れないほうがいいですね」
「君が触れる分には平気だと思うよ」
「どうして?」
「あいつさ、君が始めて来た日、自分が今まで出ていた映像を見ていたんだ。不思議そうな顔をしながらね。『どうしてあの子はこんな演技が好きなのか』って苦笑いを浮かべていた。今まで一度もそんなことなかったのにね」
「だってわたし、彼女のファンだったから」
彼は何かを納得したようだった。しかし、わたしには意味が分からない。
彼はわたしの表情に気づいたのか二度頷くと、言葉を続ける。
「嬉しかったんだと思うよ。あいつにとって過去は苦しみの対象だったけど、それをきちんと見ていてくれる人がいたっていうことが。損得勘定なしに純粋なあいつを、ね」
「だって、ずっとすごいなって思っていて。彼女だけが輝いて見えたから。端役でも、主役より輝いていて」
「そんな風に純粋にあいつ自身を見てやれる人はいなかったから。俺は引け目があって、あいつを庇ってやれなかったから」
仁科秋が千春だと分かってもその気持ちは変わらなかった。みんな千春ではなく、彼女の才能を見ていた、と言いたいのだろう。
「あいつは気が強いところあるけど、よければ仲よくしてやってほしい。こんなことを俺が言うのはどうかと思うけど」
「わたしは千春のこと好きだし、喜んで」
彼女がわたしの夢を阻む壁になっていたとしてもそれは変わらない。引導を渡されたのが彼女でよかったのかもしれない。
水絵さんには憧れていた。でも彼女は大人だったし、ただの憧れの対象でしかなかった。
女優になりたいと強く思うようになったのはどちらかといえば千春の影響のほうが大きいだろう。
わたしの夢への道を作ってくれたのは千春だった。だから、結果的に彼女に引導を渡されたと思うとすっきりした。
「君って父親いないよね?」
「いませんよ。顔も知らないから」
尚志さんは深く何かを考え込んだ様子だった。
わたしたちは暗くなる前にお店を出た。そして、その足で駅を向かう。喫茶店でお茶を飲むだけのものだったが、とても幸せな時間だった。
わたしは電車を降りた。駅の前で彼と別れることになった。彼は家まで送ると言ってくれたが、わたしは断っていた。ふと空を見上げる。空には灰色の雲が広がっていた。もう青い空を望むことはできなかった。
尚志さんと一緒にいるときはよかった。でも、一人になると気が抜けたみたいに寂しくなる。
これでわたしの夢は終わったのだ。
今日から勉強をもっとがんばろう。
そう思うと、目頭が熱くなってきた。
早めに才能がないということが分かってよかったのだ。
ずっと夢を追い続けていたら、年齢を重ねるに連れてリスクが増大してくる。今なら大丈夫。そう言い聞かせても視界がぼやけてきた。
そのとき強い雨がわたしの体を叩きつける。周囲で人の声が聞こえた。突然の通り雨に驚く言葉だ。
でもわたしは立ち尽くしたまま動けなかったのだ。
雨で体を冷やされていく自分が惨めな存在になった気がしたのだ。
「京香さん」
わたしはその声に顔を上げる。
そこに立っていたのは尚志さんだった。
わたしは慌てて涙を拭った。
そんな仕草さえしなければ彼はわたしが泣いていることに気づかなかったかもしれない。
「ごめん、雨が降り出したから大丈夫かなって思って」
心配して戻ってきてくれたんだ。
冷え切ったわたしの心に温かいものが宿るのが分かった。
「千春のせいで嫌な思いをさせた?」
「いいえ。そんなことないですから」
だが、涙というものは手や足と違って自分で完璧に操作できるものではなかった。
わたしの目から涙が零れてきた。
「家のごたごたに巻き込んでしまって悪かったな」
尚志さんはそう言うと、わたしの頭を撫でた。
わたしは首を横に振っても目から涙が溢れてきた。
わたしは思わず尚志さんの腕をつかんだ。
誰かにすがりつきたかったのだと思う。
彼はそんなわたしを引き剥がすこともなく、肩を抱くと、雨が降り続くのにも関わらずずっと傍にいてくれた。




