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千春の過去

「そうだよ。彼女は天才だった。少なくとも私はそう思っている。でも、演技だけしていればいいわけじゃない。彼女はそうしたものに嫌気がさして辞めたんだ。あの頃は僕もまだ未熟だったからね。だから、残念ながらも仕方ないと思った。けど、それに彼女はそれ以上のものを残してくれた」


 彼は何かを思い出したかのように幸せそうに微笑む。


「それ以上のもの?」

「千春だよ。彼女は水絵以上の存在だ。今の僕なら、彼女をサポートできる。水絵のときとは違ってね」


 彼は何かを追い求めているような子供のように輝く瞳で語っていた。

 わたしは千春の演技を思い出していた。

 彼女は確かにすごいと思う。


「それは分かります。でも千春は断ったと言っていました」

「彼女は強情だからね。昔からそうだった。言い出したら聞かないから。才能があっても本人にやる気がなければ無意味なことだからね。才能が全てじゃないということは彼女を見ていたら思う」


 千春も同じことを言っていたのだ。

 才能は本人が好きなものだけに与えられるわけじゃない。

 きっと千春のような人も世の中にはいるのだろう。

 やりたいことと、才能が重なり合えばいいのに、現実は違う。

 彼はわたしに製本された本を手渡した。


「これは」


 わたしは本を捲る。そこにはわたしが見慣れたセリフが並んでいた。


「君の好きなところをどこでもいい。読んでみてくれ」

「読むだけですか?」

「それだけだよ」


 それは逆に難しい気がした。動きをつけたほうが気持ちも盛り上がるし、すらすらと言葉が出てくる。だから読むだけだと指定したのだろう。

 わたしはページを捲る。それは二人の出会いのシーンだった。

 わたしは水絵さんの姿を思い出し、顔を綻ばせた。


「わたしはあなたのことが大嫌いよ。いつも嫌なことばかりして」

「僕も君のことが嫌いさ」


 そう言ったのは千春の伯父さんだった。

 わたしは軽く笑う。


「それならよかった。二度とわたしに話しかけないでね」


 突き放すような冷たい口調で言い放った。


 そこで二人は別れるシーンがある。


「次」

「あの、一つ聞いていいですか?」

「なんだい?」

「セリフ覚えているんですか?」


 千春の伯父さんは目を細めた。


「覚えているよ。一通りはね」


 わたしは次のページを捲る。

 そのページを捲ったとき、雨の中で傘を差している果歩の映像が思い浮かぶ。前さえも見通すことができない状況なのに、彼女は雨に垣間見るようにして彼の姿を見つけたのだ。


「何しているの?」


 沈黙が訪れる。声をかき消すほどの雨音が辺りを包み込んでいた。


 彼は果歩をキッと睨む。

 普通なら怒ってしまうその姿が雨音のせいなのか、彼の瞳に何かを見たからなのか果歩はあまりに痛々しく感じてしまったのだ。


「余計なお世話だよね。……ごめんね」


 言葉を噛み締めるように歯切れの悪い口調でそう告げた。

 きっとこのとき果歩の彼に対する気持ちが変わったと思しきシーン。


「次」


 余韻に浸る間もなく次のページに行くことを促された。

 果歩が彼に自分の気持ちに気づくシーンだった。

 夕暮れの中、あれ以降一言も話をしてくれない彼に苛立ちを感じつつも惹かれていく彼女がいた。


「わたしのこと嫌いなの?」


 無言で歩いていこうとする。

 いつもなら絶対につかまない手を彼女はつかんでいた。


「触るなよ。鬱陶しい」

「心配なの」

「くだらない」


 そのまま果歩を睨んで去っていく。


「君は本当にこの映画が好きなんだね」


 わたしは次のページを捲ったときにその言葉の意味を理解した。映画の台詞でないと気づいたためだ。


「好きです。とても」


 わたしは少し舞い上がった状態で答えた。

 わたしは何度も言葉を考える。


「どうしてわたしがこの映画を好きだと思ったんですか?」

「君の顔を見ていたら分かるよ。千春から聞いていたよ。とてもこの映画を好きな人がいて、彼女にやらせたらどうかってね」


 彼は持っていた脚本をぺらぺらと捲った。

 千春はそんなことまで話をしていたのか。

 何だか恥ずかしくなってきた。


「でもどうしてわたしに」

「千春がしたくないからだろう。もう演技はしたくないと言っていたからな」

「もうって千春は素人じゃないんですか?」


 それは彼女が何度も主張していたことだ。


「君は知らないかもしれないが、昔は子役で出ていたんだよ。そのときにあいつの才能に気づいた。それからあいつはしばらくして演技から離れた。あいつに演技をさせたがったのは母親だったからな。母親は才能があると分かったのかもしれない」

「そうだったんですか」


 千春がどうしてそのことを隠そうとしたのか分かった気がした。彼女にとってその記憶が幸せなものでもなかったのだろう。


「実際、学校でも目立って嫌だったらしい。あいつはああ見えて目立つことが嫌いでね」

「そんなに有名な子だったんですか? 端役くらいなら話題にならない気がするけど」

「実際、端役でもテレビにでも出たら大騒ぎだよ。秋ちゃんがいるって」

「秋ちゃん? だって千春でしょう?」


 彼はああ、と口を開く。


「彼女は役名で演じていたからね」

「どんな役名だったんですか?」

「仁科秋。俺が名付けたからよく覚えているよ」


 わたしは思わず椅子から立ち上がる。

 わたしは仁科秋と千春の姿を頭の中で比較する。

 確かに似ている気はする。

 だが、驚く心のほうが優っていた。


「わたし、水絵さんと彼女の大ファンだったんです」


 仁科の名前を出したとき、千春が大笑いしたのはそういうことだったのだろう。


「そうなのか。だから千春は自分の話題を出さないようにと言っていたんだな」


 彼は苦笑いを浮かべていた。


「でも言ってますよね?」

「どうせ知られることだろうし意図的に隠すのもおかしな話だろう? 君の実力はだいたい分かったつもりだ。君がどれだけこの映画を好きでいてくれるかも。でも、少し考えさせてくれないか?」


 彼は浮かない表情を浮かべている。

 わたしは頷いた。

 彼の迷いは当然だった。

 千春とわたしでは全てにおいて違いすぎる。

 千春はわたしがあの映画を好きだからと言った。わたしにとって彼女に勝っているのはその気持ちだけだった。


「ありがとうございました」


 わたしは深々と頭を下げ、部屋の外に出ようとした。

 わたしは呼び止められ、足を止めた。


「お母さんはどうしている?」

「おばあちゃんから譲り受けた喫茶店を経営しています」


 わたしは事情が呑み込めないながらも、そう答えた。

 彼は何かを言いかけ、首を横に振る。


「何でもない。今日は来てくれてありがとう」


 彼なりの誠意の表れだったのだろう。

 わたしはもう一度頭を下げると、部屋を出た。

 部屋の外では尚志さんがぼんやりと窓を眺めていた。

 彼は視線に気づいたのかわたしを見る。


「終わった?」


 わたしは頷く。

 だめなことは予想できた。

 彼が見ているのはあまりに高い存在だったからだ。

 後悔はなかった。


「事務所はこのビルの中にあるんですか?」

「そうだよ。一応五階にもあるけど、ほとんど使っていない。見ていく?」


「いいです」


 わたしは首を横に振る。

 もう関係のない世界の話なのだ。

 だからあまり関わる必要もない。これ以上知ると未練が残ってしまうからだ。

 あの映画に出られるかもしれない。そんな夢が砕け散り、女優になりたいと思う気持ちさえ、波が引くかのようにさっと引いていった。


「帰りましょうか」


 立ち去ろうとしたわたしの腕を尚志さんが掴んだ。


「それなら今日つきあってよ」

「つきあうって、あの」

「別に無理にとは言わないけど」


 さっきまで落ち込んでいたのに心臓がどきどきしていた。彼と関わると、わたしがわたしでなくなる気がする。


「分かりました」


 わたしは声が上ずるのを抑えながらそう答えていた。


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