神子と少年のあいだ2
頭が痛い……。
昨日セージが寝てしまってから、夕飯の後片づけをして僕もベッドに潜り込んだんだけど。
「ん……? どうしたんだろ、寝苦しいのかな?」
セージの額には汗が浮かんで、苦しそうに呻いている。夢見が悪いのかとも思ったんだけど、頬に触れたとたん熱さに驚いた。
「うわっつ!」
大きな声を出してしまったけれど、それでも反応しないで、まるで起きる気配がない。大丈夫かな……?
だんだんと心配になってくる。大人になってからあまりに高い熱を出すとよくないって本で読んだし。
「ぅ……」
脈絡なくではないけれど、唐突に。この熱はもしかしたら神子の力でなくすことができるかもしれないって思った。《力》を使うのは初めてみたいなものだけど……大丈夫かな? 大丈夫だよね。料理も上手に作れたし。
「えっと……額が良いかな?」
両手に意識を集中して数秒。じんわりと手のひらに汗をかいてきた。そしてセージの額に両手を置く。
『ジュ……ッ』とお肉を焼くみたいな音がした。熱くはないけど、生暖かいものが手のひらから腕、胸にまでたどり着いた。
「あれ? なんか、気持ち悪い? ……っ」
体から力が抜けてセージのお腹にぐったり身を預けると、僕はセージの風邪が僕に移ったことを確信して意識を失った。
ラマルはちょっと目を覚ましては眠るということを繰り返し、ほとんどを深く眠って過ごした。
沢山汗をかかせて水分を取らせ、合間に薬を飲ませる。ちょこちょこやらせることがあり、元々早くない読書は遅々として進まなかった。
“精霊の神子”が題材の話は寓話と神話が混じったものが多いのだが、シスターから借りたこれは完全に大人向けで、そこに冒険と恋愛を絡ませながら、神子としての使命を果たし歴史に名を刻む。とこんな感じの話だ。
史実をよく調べているらしく、詳しくない俺なんかだと知らないことばかりで、勉強になった。巻末に参考文献やら作中歌の楽譜まで付いていて、国中でベストセラーで、隣国でも評判が良いだけのことはあるなと思った。因みに、これはシスターに借りて居るとお礼を言った時に教えてくれたことだ。
ダカット国は実際に国王の横に代々の神子を立てて両柱として国を支えて来た歴史がある。
神子は貴族とは別の独自の権力を持ち、自然の恵みを更に豊かに実らせ、争いにおいても勝利の女神となり、国に富と幸せを齎す──とされている。聖書の記述等ではなく過去にあった事実だが、見たことのない俺としては『されている』どまりの感想しか持てない。
先代の神子は優秀で聡明なお方だったらしく、今もその力の一端を目にすることが出来る。ただその先代が亡くなったところに熱病が流行ってしまったのだ。皆が口を揃えて惜しんだらしい、『神子様が生きて居られれば熱病などたちどころに治めたに違いない』と。
俺は神子が亡くなった時に八歳くらいだった。だから神子の存在しない、景気の悪い風潮の時代を生きて来たと言える。そんな青春時代であっても、俺は『神子が居たならもっと……』と口々に語る大人達が信じられなかった。この世界は充分に優しくて偉大で俺達を育んでくれている。
神子の起こす《奇跡》は凄いのかもしれないが、その力に頼り過ぎているんじゃないかと警鐘を鳴らしたかった。また目の前で《奇跡》の成果を見せ付けられたら、俺も同意したくなるのかもしれないが――つまるところ、俺が遊んできた愛すべき山や森に大きな恵みがないと言われているようで、面白くないと言うのが本音だった。そのせいか、神子や神様を信じていない訳でもないのに信仰心と呼べるだけの気持ちは持てなかった。
これは俺に限らず同年代以下の連中も同じようで、『最近の若い奴は信仰心が薄くて困る。だからいつまでも神子様が見付からないんだ……』とは集会所に行く度に言われるご年配達の台詞だ。他の国の人なら何の因果が、と思うだろうがそれはこの国ならではの教えで、聖書にもある。
『四肢を持つ者達の神は仰られました。四肢を持ち、理性を持った我が子らよ、日々の糧や平和の為に祈るが良い、さすれば祈りのほど恵みは帰って来るであろう。世界は物質のみに在らず。肉により生き、心で死する己らは、欲に囚われず清廉な意思でもって生きよ』これが獅子教の一番根本的な教えだ。
神の姿は獅子である為、人々は守りとして何にでも獅子を象り敬う――少し話がずれたが、ダカット国民の信心深さはご理解頂けただろうか? 神子が《奇跡》を起こす力を持っているのだから、神様も当然在らせられる──とまあ、こんな具合だ。
「セェジ──」
またラマルが目を覚ました。もう日も暮れかけていて、やっとやらなければいけない家事も一段落していた。
「どうした? 何か要るか?」
「んん平気、だいぶよくなったと思うんだ。これ以上は寝れない気がするから、何か本を読んでくれない?」
確かに顔色が普通に戻っているし、問題なさそうで安心した。
「本は良いが、この家でお前が読んだことない本なんてないぞ?」
「じゃあ、それ。セェジが今読みかけてる本の続きを朗読してよ」
ラマルは膝の上の本を指差してそう言った。前も読み返していたのに、ずいぶんこの本が気に入ったんだろうか。
「ラマルがそれで良いなら、読むぞ?」
「うん」
一ページだけ遡り、区切りの良い章の頭から読み始めた。
「『僕があなたを救えると言うなら僕はすべてを投げ打とう。あなたを苦しめると言うならば遠く離れても支えたい……!』」
しばらくは順調だったのだが、例の愛を語るシーンになると抑揚を付けるだけで恥ずかしくなって止まってしまう。
「どうしたの?」
「いや、男ならまだしもこの先の台詞を俺が言うのはちょっとな……」
「くすっ……それもそうだね。じゃ、神子の台詞は僕が読むね?」
「頼んだ」
「……『そんなことは言わないで。私の願いと言えば、あなたと寄り添うただそれだけなのだから!』」
ラマルの朗読に二度驚いた。演技というのか実感が籠もっているのも凄かったし、神子の台詞を一字一句間違えずに覚えているのだ。ラマルが読んだ本の内容をすべて覚えている、と聞いた時に感じた驚きが蘇ってきた。続きを読むに連れて物語は佳境に入る。
「あ、そのさ。十二章の詩がすごく好きなんだ。セェジに歌って欲しいな」
「おいおい、俺に歌わせるつもりか?」
「だめ……かな?」
まあ結局、だめとは言えなかった。
「……風邪っぴきだからな、特別だぞ?」
「やった! ありがとう」
巻末の楽譜で少しだけ音の確認をして、口の中で歌ってみる。うん……大丈夫なはずだ。
「下手くそでも文句言うなよ?」
「言わないっ」
ラマルは心から期待しているようで、町に来た吟遊詩人を前にしたような表情だった。一緒に聞いたんだから違いないが、本職のような出来は期待しないで欲しい。
「明日晴れるだろうか/昨日の雨のように/まだ見ぬ星のように/明日晴れるだろうか/心の空に訊ねてみよう」
降り積もる雪/海風の熱/梢の囁き/そんな何もかも/光に移ろう/闇に溶けてゆく
そして/木洩れ日と日溜まり/その間には/愛が/愛が/満ちる
木洩れ日と日溜まり/その間には/いのち/芽生え/育つ
──余韻を持たせて歌い終わると、ラマルは大げさに拍手をした。
「凄く上手だね、セェジ! ありがとう♪」
「そんなに喜んでくれたなら良かった」
照れ隠しにぶっきらぼうになってしまったのを自覚しながら、わざとらしく咳払いをして立ち上がった。
「お粥の残りを持って来ようか? ちょっと喉が渇いた」
「うん、お願い」
何だか妙に幸せそうに笑っている。風邪を引いているのにおかしな奴だ。でもそう思いながら、ラマルが喜んでくれたことが本当に嬉しかった。
「ねえ、セェジ。今の歌って本当は二人で歌う歌なんだよね」
「そうだな。作中でも二人で歌っているし」
お粥と水を持って部屋に戻ると、ラマルは歌の書かれたページと巻末の楽譜を繰り返し見ていた。
「もうちょっと体調がよくなったら、セェジと一緒にこの歌を歌ってみたいな」
「だめだ、二重唱なんて恥ずかしくて出来るかっ。それにお前も女性のパートを歌うことになるんだぞ?」
「ええ~? だめかぁ……それにこれは厳密に言えばメゾソプラノであって、音域があえば僕が歌っても変じゃないよ? そういう子供だけの合唱団もあるくらい」
「と、とにかくだめだ。今日は特別だって言っただろ?」
そうはっきり言い渡すと、ラマルは唇を尖らせて拗ねてしまった。
「セェジのけち~、減るもんじゃないのに。神様に捧げる歌なのに」
「何と言われようと歌わない。それに俺の何かが減る」
何かってなんだよ~とベッドに背中から倒れ込んだ。あんなことしても平気なら回復間近だな。
「じゃあさ、次にまた特別があったら一緒に歌ってよ」
「ん~、そこまで言うならまあ、考えて置く」
「やたっ♪」
最近のラマルは我が儘を言うようになった。些細な、例えば蒸しパンが食べたいとか夕飯は何が良いとか、そんなちっちゃいことなのだが自分の望みを言うようになった。それを自覚してからと言うもの、無性に甘やかしてしまいたくなる。
「後はもう治るのを待つだけだから、無理するなよ?」
「うん、しない。今日はずっとありがとうね?」
「じゃあ俺は詰め所に行って夜番をして来るから」
「……寝られないの? 辛くない?」
我が儘とは違う気もするが、たまに頑固になる時がある。退かせる時も退く時もあるけれど、ラマルが自己主張出来ることに成長を感じていた。うーむ、自分で言うのもあれだが少々親馬鹿が過ぎるな。この場合は保護者馬鹿か?
「大丈夫だ。仮眠は出来るし、こんな時期に国境でもないのに何も起きないさ」
目を細めて小さく頷くと、ラマルは行ってらっしゃいと見送ってくれた。
昼間に無理やり休んだせいで、代わりに夜の仕事に入ることになった。だがラマルの世話はちゃんとレムさんに頼んだし、熱も下がってきたから平気だろう。
……にしてもな、一日付いて居られると思ったのに休むなら夜と代われとは……身内が体調不良の時くらい休ませて欲しいものだ。いや、本人がじゃないからか。
ラマルは平気だと自分に言い聞かせながら、帰って顔を見るまで気がかりで仕方なかったのはラマルには内緒だ。
レムさんはよくラマルにお菓子をくれる例のご夫人で、以前から大変お世話になっている真裏のお隣さんである。今日もらった仕事だと、またお世話になるんだろうな。何かお礼を考えて置かないといけない。
朝方に家に帰り着いて、ラマルの寝顔を見ながらこれからやらなければいけないことを考えていたら、いつの間にか椅子の上で眠って居た──。