シスターと兵士のあいだ2
今日も初めてのことがたくさんだったな。またティイガに教えてあげなくっちゃ! きっと今度は「良かったね」って言ってくれるはずだから。
教会での勉強はすごく楽しかった。本当はもっとたくさんやりたかったけど、シスターマリーの都合もあるだろうし、教える子供もたくさん居るんだから仕方ないよね。
それに、文字表のなぞり書きって宿題ももらったから、上手になるまで一人で練習すればいいんだ!
セェジからもらったお弁当はお手製のサンドイッチで、ちょっとだけ不格好でセェジみたいだと思った。
早く色んなものが読めるようになりたいな、しかも今日だけでお友達が三人も増えたんだ。今までも居たけど、セェジが住むこの町でできたのが嬉しい!
その友達から今日聞いたんだけど、その昔、シスターとセェジの縁談が持ち上がったことがあるらしい。気になってシスターマリーに直接訊ねてみたら、シスターから断ってなくなったんだって。それってつまり、セェジはシスターとなら結婚してもいいと思ってたってことだよね?
それを聞いてから、なんだか胸の中がおかしいんだ。今まで感じたどの気持ちとも違うどきどきが──止まらなくて、しかもシスターとセェジでは別なの。思わずシスターに『なんで断ったの?』なんて訊いちゃうし。絶対変に思われたよ、シスター笑ってたもん。あれは子供を可愛く思う笑い方だった。
うーん、どうしてこんなに毎日が楽しいんだろう? セェジのおかげだな、うん。
日が落ちてすることもなくなったら後は寝るだけだ。いつもより眠るのが楽しみだった。なんて言っても明日もセェジに会えるんだから!
ラマルはやっぱり毎日会いに来た。必ず筆記用具を持って来て、練習したから見て欲しいと言っては、成果を披露してくれた。
ラマルの勉強は捗っているように見えた。もっと教えてやればもっと早く覚えるような気がしたので、教えるのは拙いながら俺も簡単に勉強を見てやることにした。
するとラマルは教えたことはみんな覚えていて、俺とシスターを驚かせた。絵本は即座に読みこなしてしまったし、二桁三桁の足し算引き算は頭の中だけで出来るようになった。
そんな風に勉強を教えつつ、偶に勉強が出来たご褒美が欲しいと言っては俺を町に引っ張り出した。ご褒美とは言うが大抵は屋台の安い食べ物で、文字だけの本を読み切った時には新しいチョークの箱を買ってやったくらいが値の張る物だった。
勉強を頑張るラマルはとても楽しそうだった。友達と競争しているとか喧嘩をしてしまったとか、教会に行った後は必ず報告してくれる。日々が瞬く間に過ぎて行き、出会った季節が春から夏になり、やがて──冬になろうとしていた。
「ずいぶん日が短くなって来たな」
窓に近寄り空を覗くと、もう藍の色が半分も空を染めていた。
「そうだねぇー」
気のない返事。だが最近のラマルは気軽なやりとりを学んだらしく、からかっても出会った時ほど憤慨することもなくなった。俺はその変化が嬉しかった。
「今読んでるのはどんな本なんだ?」
「これ? 精霊の神子を題材にした大衆小説だけど、この国の聖書に基づいてよく書いてある伝記……違うな、歴史小説風って言うのかな。そんな感じの本」
「ほう、面白そうだな。俺も少し読みたい」
「なら僕の後にシスターマリーに借りたら良いよ。シスターの買った本だから」
「そうか。お前から借りたいって話を通してくれるか?」
「うん、良いよ♪」
会話の最中はページを捲っていたが、質問をした時にはきちんと顔を上げて答える。今のラマルはまるっきり本の虫だった。最早俺でも読まないような専門的な本も読み漁り、教会の図書室の本をとっかえひっかえして借りている。
「夢中になるのは良いが、もう暗くなって来たぞ。早く帰らないといけないだろ?」
「えぇ~、もう少しで読み終わるんだけどなぁ……本当に後ちょっと!」
良い加減に俺にもラマルが家に着く時間というのもだいたいわかっていたから、これ以上はだめだろうと言う。
「冬の夜に出歩くなんて許さないぞ? これ以上帰らない気なら、今日は泊まっていけ」
「んー……そうしようかな~」
「おいおい、その本がそんなに見たいのか?」
「だってぇ、いっちばん良いところなんだよー?!」
「気持ちはわかるがなぁ。お前が泊まっても良いんだったら好きなだけ読めば良い。どうするんだ?」
今までにはラマルの遠慮が凄まじく、遅くなったと言ってもなんとか今くらいのタイミングでは帰って居たのだ。だから今日の反応は意外に感じたが、そこまで本が面白いのだろうと思った。
「うん、じゃあ今日は泊まってくね! でも僕のことはお気遣いなく」
「はいはい、ゆっくり読書してれば良い」
今日の分の夕飯を準備して、最後にミントの様子を見て水を桶に足してやる。『気が利くわねセージ。ラマルが居るのに私を構うんだから、あんたって本当に私が好きなのね? ま、そんなとこが気に入ってるんだけど』
「そんなに嬉しいか。喉が渇いてたんだな」
ミントは水桶から頭を出すと、『う、嬉しくないわよ? そんなの当たり前だもの。今のは単なる従僕への労いよっ! 勘違いしないでよね?』やっぱり嬉しそうに尻尾を振って耳を動かした。
あまり構うときりがなくなるが、こんな時は黙って撫でてやると幸せそうに鳴くのだ。『──どうやら勘違いした訳じゃなさそうね。それで良いのよ。私に惚れてるなら下僕らしくしてなさい。き、気が向いたらまた撫でさせてあげるわ』
「よし、おやすみミント。次の休みは久々に早駆けに行こうな? お前と走らないとどうも落ち着かなくてな」
『そうね、美容の為に走るついでに乗せてあげる。よく仕える従僕に偶にはご褒美をあげても良い気分よ。おやすみなさい、セ-ジ』よし、こんなもんだろう。きっとラマルも今頃は本も読み終わったはずだ。ミントの様子に満足して勝手口から台所に入ると、やはりラマルが既に席に座っていた。
「お帰り。僕の分も用意してくれたんだね♪ ありがとう」
「ただいま。さ、食おうか」
食器のぶつかる音がやけに大きく聞こえる。食事の間は二人共がしゃべらないから、いつも静かだ。
「セェジさ……あれ、まだ続いてるの?」
「あれ? 何のことだ?」
「ほら、精霊の神子捜しって奴。今読み終わった本て、まさにその内容って言ったじゃん?」
皿を殆ど空にしたラマルがフォークを伏せて置いた。行儀が悪いとシスターに注意され続けたおかげで、立ち居振る舞いもだいぶ落ち着いてきている。後は言葉使いだな。
「そうだったな、続いてるよ。そろそろ難所も調べ終わりそうなのか、国外に届く勢いで捜索範囲を広げてると聞いたな」
「……本当に居るのかな」
ぽつりと呟く。居るとも居ないと思ってるのとも違う、不思議な響きを持った呟き。
「俺は居ないんだと思ってるんだがな。この国だと信じてる人の方が多いだろう」
「だよね。この本なんて見てきたみたいに書いてあってさ。でも本当に見つかったら凄いことになりそう」
「だな~、きっと国中がお祝いだって盛り上がるだろうな。外に向けてダカットの象徴にもなるだろうし、自然を味方にする少女なんて如何にも民衆の好きそうなヒロインだからな」
「それって、見つけた人も英雄扱いかな? 出世とかしちゃって」
「そうそう、兵士なら間違いなく宮仕えに抜擢されるだろうし、給金も跳ね上がって女にもモッテモテで、将来安泰だろうな!」
「へ~、もしセェジがそうなったら嬉しい?」
俺はこの時、何も考えずに軽薄な答えをした。それがラマルの中でどんな思い出になるかも知らずに。
「そりゃあそうさ。小さいボロ屋から立派な家に住んで、そしたらラマルも一緒に端の方に住ませてやっても良いな!」
「そっか! はは、そしたら絶対僕も住み込んで、毎朝セェジを起こしてやるよ!」
「頼んだぞ。ま、そんなの夢のまた夢だがな」
俺にとっては叶うことなど望んでも居ないような、ただの夢。ラマルとその夢を見て楽しい一時を過ごした。
だが──そう思っていたのは俺だけだった。ラマルの目にははっきりとこの先の未来が見えて居たんだ。この時のラマルの質問や会話は誘導的だったと気づいたのはずっと後……何もかも済んでしまってからだった。
「ご馳走さま。お皿洗っちゃうね♪」
「置いておけば俺がやるのに」
こまかな背中が皿洗いで揺れる。俺は何となく母親に世話されるような、心地よさを覚えていた。
「良いから、夕飯のお礼! んでね~」
他愛ない話が続く。ラマルは教会の子供達の間で幹部か何かのように地位を確立していた。新米と侮られたのは最初だけで、頭の良さと明るい性格でみんなの人気者になったのだ。最近自信を持ち始めているように見えるのはそのおかげだろう。
俺はラマルの成長がまるで父親のように誇らしかった。
「お前、何だか成長したな」
「……本当に?!」
「ああ、立派になったよ。最初のおどおどした様子からは想像出来ないぐらいだ」
「へへ、セェジのおかげだって!」
慕ってくれる素直な言葉が心地良い。俺はこんな日が明日も、ずっと先まで続いて行くんだと──無意識に信じきって居た。
「あぁ……悪いがもう眠くなって来た。先に風呂に入って良いか?」
「うん、入って入って。セェジの家なんだから遠慮するなんて変だぞ」
「そうは言うが、客を差し置いて一番風呂もな……そうだ、だったら一緒に入るとかどうだ?」
これは名案を思いついた。と、ラマルの手が止まった。
「……それは無理! まだ洗い物もあるから、セェジの後で使うよ」
言いながら慣れた手付きでたわしを動かして居たが、とうとう最後の皿が乾かすための籠の中に収まった。……ラマルはまだ気づいて居ない。
「今終わったみたいだが?」
「あ、ってえ? ~~っお皿じゃない洗い物があるから!」
自分の失態に気づいたと思えば、あまつさえそんなことを言い出した。ここまで避けられて無理強いするほどのことはない。俺はあっさりと諦めた。
「洗い物はしなくて良い。俺は風呂に入って来るから、先にベッドに入って居ろよ」
「……うん」
頬を染めてこくんと頷く。幼さの残る素直な仕草を見て、これも最近になって増えたことの一つだと思った。何故かラマルは、大人になった部分と子供に戻ったような部分とがあった。
「ふー、良い湯だった」
寝室に戻ると小さな蝋燭で本を読むラマルがベッドに座って居た。膝の上の本は例の神子の小説だった。確かに読み終えた後には気に入った部分を読み返したくなるがな。気持ちはわかるが、明日にすれば良いのに。
「あ、もう上がったんだね。じゃあ僕も入ってくるから」
俺の生返事を聞きもせずに部屋を出て行った。
あんなに小さな灯りだと目に悪そうだと思ったが、ラマルはいつだって俺に遠慮していた。けれどお互いに妥協出来る我が儘と遠慮の境目をきちんと判断するようになって居たから、今の丁度良い馴れ合いがあった。
「どれ……」
まだ完全には閉じていない本のページを開き直して、ついさっきまでラマルが見ていた箇所を読んでみた。
『僕があなたを救えると言うなら僕はすべてを投げ打とう。あなたを苦しめると言うならば遠く離れても支えたい……!』どうやらこの本は恋愛の要素もあるようだ。神子の話と言うからにはこれはヒーローの口説き文句だろうと想像が付いた。
『そんなことは言わないで。私の願いと言えば、あなたと寄り添うただそれだけなのだから!』ふーん、こういう恋愛に憧れるのは女が多いとばかり思って居たが。パラパラと先のページを捲る。
「あー、セェジ何見てんの~?」
「っと、何ってお前が見てた本じゃないか」
「暗いんだから明日にしなよ。僕はもう読み終わったんだから、急いで読むことないのに」
それをお前が言うかと思ったが、ラマルらしい言い草に黙っていた。
「まあな……でも、ちょっとした暇潰しじゃないか。もう明日にするさ」
ラマルが納得の息をもらしたところで、速やかに隣に寝転がって来た。
「セェジのベッド狭い~」
「おい……っ、それは言わない約束だろ?」
哀れっぽく演技して手で右手で額を覆えば、ラマルはきゃらきゃらと笑った。
「こうすれば狭くないよ♪」
おもむろに押し倒され、ラマルは真正面から体に乗っかって胸に顔を埋めた。猫みたいだ。
「俺は重いじゃないか」
「うっそ~ぉ。僕軽いもん。ちょっと動き難いだけでしょ」
「わかってるなら退いてくれ」
苦笑して張り付くラマルを退かそうとした。
「ふふ♪ セェジって日だまりみたい」
「なんだ、藪から棒に」
服を掴みかけた手を引っ込める。よくわからんことをいきなり言うなぁ。でも難しい本を読み出してからは偶にあることだったのであまり気にしない。
「ほらさ~? ふかふかのお布団みたいでお日様の匂いがして、あったかくてごろんってしたくなるの。そっくりじゃない?」
なかなかに詩的な表現だ。何よりもうっとりと眠たげなラマルから言われると偽りもなかろうと、俺はその例えが気に入った。今まで似ていると言われたものの中で一番良いものでもある。他は……割愛しよう。せっかくの気分をぶち壊す必要はない。
「そうか、なら俺はお前専用の日だまりだな」
ふざけてそう言った俺にラマルは埋めていた顔を上に向ける。瞼の重そうな目と目が合った。
「他の人に使わせたらお仕置き……なっ?」
「はは、こんなの使いたがる奴なんて他に居るかよ」
「ん、ん……」
ラマルはまだ言いたいことがあるみたいだったが、襲い来る睡魔に見事夢の中まで連れ去られてしまった。
「おやすみ」
微睡むような寝顔を見て、起こさないように気を付けながら少しだけ体をずらすと、俺もまた睡魔に負けて幸せなまま夢へと落ちたのだった。