思慕と恋慕のあいだ2
だからあの時、止めようって言ったのにね。馬車に揺られながら、乗っている物からなんとか気を逸らすために目を瞑った。
「寝るのか?」
セージの囁きに、曖昧な返事を返す。
「寝られたら……寝る」
「そうか」
訂正。セージと密着していることを意識するために目を瞑った。──ミントに乗る時より顔やぬくもりがずっと近い。気を付けないと、顔が笑ってしまいそうになる。
まだセージが好き……僕はそれを受け入れた。
けれどこの先もずっと好きでいる自信はなくなって居た。決別の言葉を聞いたのは大きくて、何より自分のためを考えると……他に目を向けなさいと言ったティイガが正しいと思う。
今この時間が幸せだと感じる分、それ以外の時間はセージのことを考えないようにすれば……前進できる気がした。やってやれないことはないはずだと、僕は腕の中で身じろぎした。足が座席に付きそうになり、慌てて引っ込める。
侍女さんが僕の様子を見て心配してくれた。もちろん男性兵と二人きりで馬車に乗るなんてあり得ないので、出張には旅慣れた侍女さんが新たに付けられた。
何故馬車にここまで恐怖を抱いてしまうのか、アード宮に来てから僕なりに調べて解決法を模索してみた。何故体が成長しないのかを調べた時と同じで、それは専門書に小難しい用語で書いてあった。
要約すると《幼少期の記憶のない、また消えると思われる期間に起きた出来事も人は覚えており、それは人生に深く刻まれる可能性がある》というものだった。その本には例が二、三しか載っていなかったしどれも偶然か因果関係があるのかも怪しかったけど……これが本当だとして、僕に当てはめると。
両親を亡くした馬車事故。僕もそこに居たというから、それが僕が馬車を怖く思う原因ではないかと推察できる。
それを主治医に、あくまでそんな気がする──とほのめかしてみた。原因を突き止められない彼が、理不尽に解雇されてしまうのは可哀想だったし。
八方ふさがりと頭を抱えていたお医者様も、患者の勘にも縋る思いで勉強して、ダフネや大神官様にそれが最有力だと説明することになったらしい。嬉しそうに報告された。
つまり今回の、セージと一緒に馬車に乗れたという事実がなかったとしても……やがては馬車を克服していこうという話になっただろう。
現に原因を事故のせいだと信じるようになってから、ほんの少しだけど恐怖は薄れた。馬車という言葉も慎重になれば口に出せる。
そして遅かれ早かれ、セージに抱き上げられたまま馬車での移動をしようという運びになったはずだ。
両親……胸の中に空っぽを感じた。考えないようにしようとしていた。考えても仕方のないことだと思っていた。
でもここにきて馬車事故の話をダフネから聞いて、かつて僕にも両親に焦がれた気持ちがあったことを思い出した。ずっとセージのことばかり考えていたけど、そこに両親が亡くなっていた事実を拒絶する、逃げたい気持ちがあったのも確かだった。
もう、僕の名前を呼んでくれる父親にも母親にも会える日はこない。いつか会うことができたなら、その人はどんな人だろう? 名前は? 顔は? 何をしていて──どうして僕と離れなくてはいけなかったのか──幾度も幾度も夢想した。
幸せな時も悲しい時も、それは靄のようにはっきりとしない妄想だったけど、そこには両親が居てくれた。居ない……それが穴を広げて、何もないことで訴える。『会いたい、愛されたい』と。
体が強張って、しっかり腕と足を伸ばしたくなる。
「セージ、姿勢を変えたいな」
「ああ、良いぞ」
広げられた腕の中で肘を真上に伸ばす。足も同じように前屈して、セージの太もものさっき乗っていたのと逆側にお尻を落ち着けた。
「ありがとう」
返事はなくて、またガタガタと車輪が地面を掴む音だけになる。目を閉じると不思議と、恋しい気持ちと優しくなれる気持ちが混じり合った。
セージが僕を落とさないようにと、腰に手を回していた。とても遠慮がちで、僕はその手に自分の手を重ねてしまいたくなったけど、そんな身勝手な欲望は追放する。
ああ、今まで僕の心の中にはセージがどっしりと構えていて、だから僕はお父さんとお母さんが居ないことを考えなくて良かったんだな……。それが失われつつあるから、寂しさを思い出してしまうんだ。
これから空いた時間にする趣味もないし、両親のことを調べるのは良い機会だと思えた。何か偲ぶことのできる肖像画とかがあるかもしれない。
目を閉じて身動きしない僕をセージは寝たと思ったのか、力の入っていない上半身を、ずり落ちないようにセージの胸にもたれさせた。別に……寝たふりをした訳じゃなかったけど、これからはしてしまいそうだった。…………。
「着いたぞ、ラマル」
肩を揺すられて、ぼんやりする頭は急に明かりが点いたようにはっきりした。目を開けると、既に馬車の中ではなかった。
「あれ? 馬車は?」
「お前が寝ている間に他に移動させた。さ、馬に乗るからな。降ろすぞ?」
頷いて、地面に足を付けた。なんだかまだ馬車に揺られてるみたいで、僕は違和感がなくなるまで足踏みを繰り返した。『大丈夫? ラマル』ミントが心配してくれて、『平気だよ!』って答えた。
『なら良いけど、ラマルの平気は当てにならないのよね』
時間はだいたい真昼を少し過ぎた頃。領主の伯爵と遅い昼食の後、儀式と舞を奉納する……予定を思い出して気合いを入れ直した。これは僕の仕事なんだから。
「行こう、セージ」
ミントを引くセージに笑いかけて、初めての郊外のお屋敷へと向かった。近づくに連れて、無駄に大きな建物だという印象が強くなった。アード宮は、広いけど全ての部屋に役割がある。でもこの屋敷からは少しうらぶれた雰囲気を感じた。屋敷の修理ができないほど領地経営が上手く行ってないのかもしれない。
玄関前には跪く人がずらっと並んでいて、アード宮で迎え入れられた時のことを思い出した。
馬から降りると、その列の中心に居た人がすっと立ち上がり礼をした。
「これはこれは、ようこそこのような田舎にいらっしゃいました。私は領主のシーレ・マトマンと申します。心よりの歓迎を申し上げます、“精霊の神子”様」
「はじめまして、マトマン伯爵。盛大に歓迎して頂き光栄です、今日はよろしくお願いします」
迎え入れられた屋敷には見るからに今日の為と思われる、丁寧に世話された花壇の花々や着飾った村の代表という人々が待ち受けていた。それらを見ているとなんとなく気分が悪くなる。なるべく見ないようにしよう。
「それでは立ち話もなんですから、屋敷の中へどうぞ」
「ありがとうございます」
伯爵は昼食の間中、『神子様に来て頂けて本当に助かります』とか、『これからもぜひ仲良くして頂きたい』とか、僕が内心引いてしまうほどに強く話しかけてきた。
表面は穏やかに笑って話を聞いているけど、まとわりつくような視線が不愉快だ。使用人の人は心得ていてこちらを見ないけど、同じ席に着く村の代表者は遠慮も何もなくじろじろと上から下まで僕を観察している。
神子の力を証明するために行った砦での、見世物気分を思い出した。……こんなことがこれから毎日のようにあるんだと思うと、うんざりする。慣れるしかないことなんだろうから、早く慣れてしまいたい。
食欲もあまり湧かなくて、なんとか残さないのが精一杯で味にまで注意を払えなかった。とてもお金をかけたんだろうことは、夜会でもないと出てこない高級食材で察しが付いた。
「すみません、時間がかかるかも知れませんから、なるべく早く儀式の準備をしてもよろしいでしょうか?」
『この地方の良いところは……』と語っている伯爵の言葉をできるだけ自然に遮って、僕は話を進めた。ゆっくりお茶を飲むよりも、さっさと帰りたい気分になっていた。
「そ、そうですね! 場所はこの屋敷の裏の果樹園からでお願いします」
僕の機嫌をそこねたくないのか、伯爵は話を遮られたこと等なかったようにまた話を続けた。この人は僕の興味を引きたいらしいけど、それは完全に失敗していた。
移動の間も常にしゃべっている伯爵の声をなるべく聞かないようにして、意識を自然へと向けた。
『僕の声が聞こえる?』『うん、よく聞こえるよ』澄み切った声達に心が落ち着く。ここの果樹は苗木を春に植えられたばかりの物が多いらしく、人間で言ったら少年少女くらいだろう。もちろんお父さんお母さん達も居るけど、他の畑に移したのか広大な園の半分は若い苗木だった。
「儀式の間は意識を集中するので、皆様お静かにお願いします」
セージが注意すると伯爵はピタリと口を噤んだ。ありがたい。僕も続いて口を開く。
「今からこの地域の自然達を応援しますが、私がすることは自然の持つ力を少しだけ助けて高めることです」
「はい、それはもう充分に承知しております!」
それ以上の《期待》を持っているのは明白だった。
「それではこの誓約書にサインを」
僕はあらかじめ持たされた書類をセージから受け取って、伯爵に差し出した。神子を守るために古くからある誓約書で、何が起こっても神子を訴えたり神子のせいだと言わせないためのもの。領主がサインを拒否した場合は、儀式を行わないことになっている。
伯爵は誓約書を繰り返し読んで確認すると、真剣な目でこちらを向いた。
「写しを取らせて頂いてよろしいでしょうか?」
「もちろん構いません。証人はこちらから二人、そちらから二人の計四人を希望します」
これが神の齎す一方的な奇跡ではなく取引だと、ようやくわかってくれたみたいだ。
「わかりました」
誓約書にサインが六人分並んで、僕は儀式の準備を始めることにした。
「ありがとうございます、それではこの領地の地図をください」
「どうぞ」
伯爵も用意していたらしく、侍従らしき人から受け取って僕の前に差し出した。今までは小さな子供を手込めにするようないやらしさがあったけど、目の前の彼からは消えていた。
「準備が整い次第神子様は儀式を執り行いますので、下がっていてください」
これまたセージのナイスアシストで、金魚のフンのようにぞろぞろ付いてきていた人達は横並びになった。間近で見てみたいという意思が伝わってきて、珍獣気分は嫌でも増してしまう。視線に背を向けて、地図に目を落とした。
神子の勉強に地理学があるのはこのためだ。地図だけでも完璧に地理を把握しないと、隅々まで力を行き渡らせることができない。
僕は地図を片手に持ってこの領地の形そっくりな図形をチョークで地面に描いていく。多分に誤解されているが、神子の儀式のやり方は一つではないし人によって好みが分かれる。
歴代を挙げていけば、絵を見ただけで儀式ができたなんて人もいれば、その地を直接踏まなければ力を振るえなかった人もいたらしい。
ピンからキリまでで言うと、僕はまあまあの力があるようだ。領地を廻らなくても、この一回で儀式を済ましてしまえるということがわかったから。
その場所に行ってみないことには、どれだけ力が発揮できるかわからないんだけど、今回は『大丈夫だ』と勘が告げていた。
図形を書き終わり、チョークの粉を払うと振り向いて一つ礼をした。始めるという合図は伝わったようで、唾を飲む音が聞こえてきそうだった。
『みんなー! 一緒に歌おう♪』答えは訊くまでもなく体に響いてきた。僕には自然達を友達で支え合う存在としてしか見られないから、儀式なんて畏まった言い方をしても、中身はこんな感じになってしまう。
「『芽吹く蕾の愛し子よ/我が心のままに育て』」
今回の依頼は植物達の健康と育成促進が主だったので、選曲もそれに合わせた曲。踊りは単純にステップを幾つか組み合わせたものを繰り返すだけにした。但しチョークの図形の中を余すことなく踏むことだけは忘れない。
この図形が実際の領地とリンクしているので、これで全体に満遍なく植物達は育つだろう。鶏や牛なんかの家畜にだって良い影響があるはずだ。
──歌が終わり、最後のステップを踏む。僕は果樹園の木達を目にして、みんなの心を受け止めると、自分の仕事に満足した。『みんなありがとう!』『楽しかった、ラマル! また一緒に歌おうね♪』
「っ素晴らしい! なんという《奇跡》──これが神子様の御力!!」
後ろの観衆は育ち始めたばかりの木が見事に枝を伸ばし、葉を茂らせているのを見て騒いでいる。
どうも──この領地全体がこうなってるとは思っていないようだ。護衛兵達が僕を囲んでから、領主は近づくことを許される。
「やはり神の御力は素晴らしい! さあ、お疲れでしょうが次の村にお連れ致します」
ほらやっぱり。でもこんなこと何回も何回もやりたくないよ。信じられないくらい、どっと疲れた。
「伯爵様、私の力により植物達が生い茂ったのはここだけではありません。伯爵様の領地全てで同じことが起きたのです、私の儀式はもう充分でしょう」
「は、え……? 今なんと、いえ、確かめさせますので一度屋敷に戻りましょう。護衛の方々もくつろがれてください」
領主は『嘘だろ、何言ってんだこの小娘』みたいな表情を一瞬見せた。もちろんすぐに取り繕ったけど、本当に嫌な気分。疑われたことが──じゃない。神子の力に縋りながらその力を疑う。その浅ましさが嫌だった。
これが力なんてある訳がない、と言う人だったら納得もするけど、わざわざ招いておいてこの扱いは酷くないかな?
「ありがとうございます」
僕が上手く笑えなかった理由を、領主には疲れのせいだと思って欲しかった。
伯爵の屋敷に戻り、待たされること三十分強。庭の見える部屋だと太陽の傾きが感じやすいから、時計がなくても僕には関係ない。
「大変お待たせ致しました。確かに依頼していた領地内の村々だけでなく──全ての植物達が育ったという報告を確認しました」
「いえいえ、素晴らしいお庭を拝見していましたから、ちっとも退屈しませんでした。この度はお招き頂き、ありがとうございました」
勝った──僕は見た目で僕を舐めていた若い伯爵サマに完全勝利したことを確信して、さっさと帰り支度をするように護衛兵に伝える。
もうこんなところに用はないからね。引き留めようとする伯爵の言葉を完全に聞き流す。
偉い人間は立場が下の人間の言葉を聞かなくても良いし、聞かなかったことにしても良い。──これは僕が昔学んだことの一つだ。
伯爵の胡麻擂りはしつこくて、いくら遜られても僕の気分は良くならなかった。むしろ悪くなった。
「ずいぶん早く済んだな。お疲れ様でした、マルセラ様」
「そうだね、早く済んで良かったよ。早く帰ろう、セージ」
帰りも当然馬車。セージの腕の中に揺られると、あれこれ考える前に眠気がお布団をかけてしまった……。
予定していたよりもずっと早くラマルの遠征は終わってしまった。これなら馬車に乗っている時間の方がよほど長い。
ラマルは疲れたのか、馬車に乗って間もなく寝てしまった。髪を撫でてもぴくりともしないので、深く眠っているようだ。
これが“精霊の神子”の当たり前だというのだから、神子様に休まる時なんて殆どないだろう。
しかし昔の神子様を護衛した人達に話を聞けば、忙しいのは就任して初めの方だけで、三年もすれば何か大きな事件が起きない限り仕事は減るそうだが……大丈夫だろうか?
仕事の間中、ラマルは無理に笑っていた。伯爵の話も長くてつまらなかったし、村の代表者達はやれ『幼子のようだ、本当に力はあるのか?』と……離れている本人には聞こえないと思ったのか声を抑えないせいで、護衛には丸聞こえだった。
ラマルに三年もこの環境が耐えられるだろうか? いや……強い子だから、耐えてしまう気がする。耐えてしまうことの方が問題なのか? 弱音を吐かないということは、何か問題があっても一人で抱えてしまうということだろう。
かつてシスターに『私は誰よりも強いラマルが誰よりも心配です』と言われたことを思い出して、俺だけでもラマルが無理をしないように見ていてやらなくてはと思った。
強い理性と意思を保たなければ、侍女さんの見ている前でも何をするかわからない。これもまた非常に深刻な問題だった。




