思慕と恋慕のあいだ
目覚めた僕の隣りには、セージもティイガも居なかった。何にがっかりしたのかわからないまま、今日の予定を確認して身支度を整える。
そして。僕は禁断の果実を口にしてしまったことを知った。僕はまだセージとルシアンを見ていろという命令を解いていなかった。
セージのことがわかる──ゾクリと背筋に寒気が走った。今、昨夜のセージのことを報告させたなら、僕の望みは叶うだろうか? 落ち込む結果になるかもしれない──止めなければ。
人には一人の時間が必要なんだから。誰かの一人きりを覗き見するなんて、いけないことだ。けれど──甘いと知っている果実を、簡単に手に入るそれを……拒絶することができなかった。
結局、セージは昨夜ぐでんぐでんになるまで酔っ払って部屋に帰ってきた。ということしかわからなかった。──安心。
……もう、止めた方が良い。監視が間違っている理由なら幾らでも思い付く。……ルシアンの解除は簡単だった。
セージの、セージの──セージの心が知りたい。あんな軽い気持ちで使って良い力じゃなかったんだ──これは。仕方ないとか、そんなものでは計り知れないほどの誘惑があった。
解除できない。したくないんだと認めて、僕は監視を続けることにした。セージと離れる決意をしたのに、心が離れたくないと言っている。
ちゃんと──一歩離れるよ。でもいきなり、全部は無理だ。『許して──』誰にともなく許しを乞うて、僕は神殿へと修行に向かった。
俺の誕生日以来、日常は少しだけ形を変えて、だが平穏に時が流れていた。
しょっちゅう奢れと絡まれるし、知らない人も俺の顔を知っていたり。隊長ともずいぶん距離が近くなったような気がする。
護衛隊の中に置いては一つ昇進した為、ラマルの予定をより詳しく知ることが出来た。忠義心の高い者だけが入れる隊という必要性がよくわかった。万が一、この中から内通者が生まれれば恐ろしいことになるだろう。
ラマルからの呼び出しは一切なくなった。当然だろうが、どうしても寂寥感があった。ラウネも侍女頭から配置替えになり、アード宮に行く頻度はぐっと下がったらしい。
だがそんな寂しい平穏な時間は、予想以上に早く壊れた。
「こんにちは、セージさん」
「ああ、ラウネ。どうしたんだ? 直接ここに来るなんて、珍しい」
書類仕事をしていた俺は、慌てて椅子から立ち上がった。アード宮の中にある、兵士用の事務室にラウネが来たのは、初めてのことだ。
「お忙しい中ごめんなさい、私もちょっとお仕事のことで話があるの」
「お仕事? ラウネは今、何をしているんだ?」
「マルセラ様の日程を組んでいるわ。結構大変な仕事でね。私達に言えばマルセラ様が来てくれる、なんて勘違いしてる人とかも居るし」
「それはご苦労様です。ということは、何かマルセラ様の日程に変更でもあったんですか?」
「これから、あるかもしれないのよ」
そう言ったラウネは、困った顔で笑った。そして、その意味を俺はすぐに知ることになる。
「マルセラ様が馬車に乗れるように実験を?」
「ええ。やっぱり人の口に戸は立てられなかったの。マルセラ様が馬車に乗れるなら、何故郊外には来て頂けないのかと──もう看過出来ないほどに、各地の領主から訴えが大きくなってしまって」
ラウネの話によると、そもそも王都から全く出ない神子というのは過去を見ても居ないらしく、今までは泊まりがけで国内を巡り、神子の力で自然を恵ませてきた。
だがラマルは馬車に乗れない……。そのせいで神子の力を頼ろうとしていた人々は不満を抱いていた。そこにラマルが馬車に乗っていたという目撃情報があり……領主達が一斉に立ち上がった。
例えようのない不快感が広がった。領主達が民や領地のことを考えて豊かにしよう、とするのは良いことだ。それは間違いないのに、厭らしさ……とでも言えば伝わるのか、ラマルの──神子の──事情も何も知らず、《奇跡》を求める姿勢に、居るのかもわからない人間達に嫌悪を抱いてしまった。
「なるほど、わかりました。それで実験の日をいつに変更する予定なのですか?」
「なるべく早くと言われていて、馬車は待機させて置くから、マルセラ様の体が空き次第ということになるわ」
「ずいぶん急ですね」
頷くラウネには、少しだがやつれが見える。俺とは違って忙しいようだ。
「そちらの手続きはしてあるわ。シィナさんにも話を通してあるから、問題ないはずよ」
「ん? では、ここには何故いらっしゃったんですか?」
「言い辛いんだけど……セージさんにも実験に参加して欲しいの。ほら、マルセラ様が馬車に乗れた時にはあなたが居たから。もしかしたら……あなたが居れば大丈夫かもしれないでしょう?」
そういうことか。目が覚めるような話だった。実験の結果次第では……ラウネが言い辛いのも無理はないな。
「わかりました。ひょっとすると、今からということでしょうか?」
「察しが良いのね。直にマルセラ様が戻られるから、そうしたらすぐに始まるんです」
ラウネの話を聞いた俺は内勤の時と同じように最低限だけの鎧を着け、宮と外門の道の脇に止まった馬車の前に向かった。ラウネもラマルも既に来ていて、俺が声をかけるとその場に居た人達全員の視線が集まった。──普通に恥ずかしい。
「遅れてすみません」
「セージさん、来てくれてありがとう」
ラウネの手招きに導かれて、彼女の前まで歩く。
「実験は進んでいますか? ラマル、マルセラ様は──」
約一週間ぶりに見たラマルは、表面上何も変わっていないように見えた。地面をじっと見ているが、それは馬車を見ない為だろう……元気なようで、ほっとする。
「実験自体は順調よ。やっぱり、マルセラ様に馬車に乗って頂くのは無理かしらって思っていたところよ」
見渡せば男性騎士、女性騎士、侍女に執事……と実験の為に集められた人が一様に諦めを滲ませた表情で居た。
ラマルの以前の怖がり様からして、何度も馬車に乗せようと試みるのは、ラマル本人にも見ている人にも負担が大きいからだろうな。
「それは仕方ないかもしれませんね。前はきっと気が動転していて、偶々乗れたのでしょう」
「一応セージさんで最後よ。マルセラ様を抱いて馬車に乗ってくれれば良いだけだから、さっそくお願いします」
ラウネに返事をして遠ざかり、声をかけてからラマルの前に立った。
「失礼します、マルセラ様」
「……セージで最後?」
その態度に柔らかなところは一切なかった。疲れているのか、所作が重く見える。
「はい、その通りでございます。──抱き上げてもよろしいでしょうか?」
「許す、って言わないと終わらないんだよね……良いから早くして」
投げやりな言葉だが、馬車に乗ることを続けたせい……だと思いたいが、それは都合が良すぎるだろう。俺が目の前にいたら、気分が良くないはずだ。
「失礼致します」
俺もラマルと同じで、早く終わらせてしまいたい。
相変わらず羽のように軽い体を抱き上げると、皆に見守られながら馬車に近づく。ラマルは背中を向けているので馬車は見えていない。今のところ、緊張している程度のようだ。
「っセージ、止めよう?」
ラマルが囁いた。足を止める。
「怖いのか? 無理なら……」
ラマルを降ろそうとして、腕を掴まれる。
「嘘。平気──だから、その扉を開けて」
何だったんだ? 疑問に思いながらもラマルを抱え直して、掛け金を外すと扉を開けた。掴まれた腕に力が入ったが、制止の声は聞こえて来なかった。そのまま座席に座る。
「大丈夫でしょうか? マルセラ様、お体等に変化はございますか?」
「うん……大丈夫みたい。でも、座席には降ろさないでね?」
腕の中のラマルを見れば、体は震えているものの呼吸も落ち着いているし、きちんと目を開けている。ただ顔は青いし掴んでいる腕は力強く握ったままだ。
完全に平気、という訳でもないらしい。
「無理なさらず……一旦外に出ましょう。しっかり掴まっていてください」
「うん」
馬車から降りると、周り中の人が待ち構えていた。誘拐未遂事件を思い出して、ちょっとした既視感を覚える。
「マルセラ様。大丈夫なのでしょうか?」
ラウネの言葉に、ラマルは首を動かしてラウネと目を合わせた。
「なんとか平気……みたい。ねえ、少し離れたいんだけど」
ラマルは俺に向かって言った。そりゃ、いつまでも抱き上げられていたくはないか。慌てて降ろそうとする。
「あ、失礼しました!」
「ち、違っ! 馬車から離れて、早く!」
途端にラマルの怯えが酷くなった。更に焦った俺は、ひとまずラマルを馬車から離れさせなければと、ラウネ達を置いて走って遠ざかった。
「……済まなかった、もう大丈夫か?」
だいぶ馬車が遠くなったのを後ろに見て、やっとラマルを降ろした。ラウネ達がこっちに近づいて来る。
「──まあね。とりあえずは平気」
笑顔は弱々しく、余計に心配になった。
「他の人ではだめだったんだろう?」
「そうだよ。──あのね、セージだから言うけど、馬車の近くで僕を一人にしないで。僕から目を離さないで──お願い」
さっきの降りた後と乗る前のことだ。お願いと言うラマルの顔には恐怖しかなくて、迂闊な己を激しく叱り飛ばした。『俺は何をやっているんだ!!』
「畏まりました。肝に命じて、以後このような失態を犯さないとお約束します」
「約束だよ?」
「はっ!」
敬礼して返事をすると、ラウネ達一行がたどり着いた。
「マルセラ様──大変失礼致しました。私どもがあのような場所で話をした為に、要らぬご負担をおかけしてしまいました」
「私は大丈夫です。特に不具合は感じません。ラウネ、これでこの実験は終わりですか?」
「はい。左様にございます。ご協力頂き、誠に感謝します」
ラマルはほっと一息吐いて、笑顔になった。
「それでは皆の者、勤務中にも関わらずご苦労でした。片づけた後は本来の職場に戻ってください」
「「畏まりました!」」
すぐさま馬車と実験に使われたらしい妙な道具達は片づけられてしまい、手伝う暇もなかった。どこから持って来たか知らないのだから、手伝っても足手まといだったと自分を慰めて、その日は書類仕事に戻った。
──翌日。ラマルの翌週の日程を変更して、試験的に日帰り出来る距離で馬車を使うことになった、と隊長が報告した。
それはつまり、俺がラマルを抱いたまま馬車に乗せ遠くへ行く……そうなるんじゃないか、という不安はピタリと的中してしまった。




