夢と現実のあいだ
ルシアン殿下が正式にラマルと友人になってから、いくつか変わったことがあった。
ラマルが俺を呼ぶ頻度が毎日でなく二、三日に一度になり──ルシアン殿下が勉強という名目で週に一日、遊びにやって来るようになった。
ラマルの話では、いきなり来ると護衛の人が不憫だから、決められた時に来てきちんと勉強もするなら、きっと遊ぶ許可が出るとルシアン殿下を説得したそうな。
それは本当にありがたくて、いきなり予定が変わることも駆けずり回ることもなくなった。王宮側の人もここに関しては安心できるようになったらしく、行き帰りの間にアード宮と王宮の兵士達は仲が良くなった。
しかし呼び出しが少なくなったのは、ラマルの仕事が忙しくなったからだ。俺達は護衛だが持ち回りは決まっているし、いつも俺が直接ラマルを護衛する訳でもない。
「セージさん、マルセラ様からのお手紙よ。ラブレター♪」
「ありがとうございます、ラウネ様」
会えない間にラマルが書いたらしい手紙をラウネが手渡してくれた。いつの間にか、ラウネとラマルはすっかり仲が良くなったらしく、俺達の伝言役のように取り持ってくれていた。この人の目的はまだわからないが、悪い人ではなさそうな気がする。
「ねえ、マルセラ様から聞いたんだけど、三日ぶりの逢瀬をお母様がまた邪魔したそうじゃない?」
「あー、マルセラ様に何かあってはいけないとお思いなのでしょう」
そう、後から知ったのだがラウネはダフネ様の娘だったのだ。最初に俺に色仕掛けして来たのも、ダフネ様が云々だったのではないかと思っている。
「だからといって……せっかく雰囲気が盛り上がってもぶち壊しだわ。まったく、少しはマルセラ様の恋を応援してあげても良いでしょうに。ね? そう思いません?」
残念ながら、その点だけは同意出来ない。ラウネ様がどう思っているかはわからないが……少し常識があれば、何が何でも俺とラマルをくっつけてはならないと思うはずなのだ。
「いえ……子供は子供同士が一番だと思いますよ、ルシアン殿下となら、お似合いなのでは?」
「あら、それもそうね。ならセージさんは私と大人同士、また飲みに行きましょう? この間のお店、とっても美味しかったし」
「そうですね。また、同僚達に声かけておきます」
「ふふ、たまには二人きりでも良いと思わない?」
柔らかな笑みから一転、艶っぽい表情と色気に俺はたじろいだ。
最初の頃のように夜に呼び出して部屋に誘うような真似はしなくなったが、ラウネにとって俺はキープなのだろうと、全てやんわり断っている。
「はは、ラウネ様に誘われて声をかけなかったらジークに怒られますので」
「そうかしら、じゃあ仕方ないわね。ジークさんにもまた飲みましょうって言っておいてくださいな」
「はい。ではまた」
ジークは未だにラウネに熱を上げていて、この前も誘われるのがいつも俺経由だと恨めしく睨まれた。そんなこと言われてもしょうがないんだがな。
「さて」
部屋に戻った俺は、することもなくなって一人になり、やっとラマルからの手紙を開いた。
『親愛なるセージへ──最近、なかなかゆっくり会えないね。セージは体調悪くしてないかな? 僕は元気だよ。もし具合が悪くなったら、すぐにラウネかシィナに言伝してね。今度は僕が看病してあげるから!
お互いにお仕事があって、特に僕が忙しくなって……少し、寂しいです。もし、だけどね! セージが僕に会いたくなったら、いつでも部屋にきてね? 僕はいつも会いたいと思ってます』
急に手紙の文字が滲んだ。ハッとして手紙を持ち上げたが、水の音がしてインクを滲ませてしまった。
「会いたい……」
滲んだ文字を読む。馬鹿か、俺は。ちゃんと三日前にも会ったじゃないか。大げさだって笑うところだろ。──でも。会いたいと思ってくれたラマルを抱きしめてやりたい。そんな風に思ってしまったんだ。
『前に会えた時はお仕事が伸びちゃって、僕が凄く眠たかったせいで、あんまりセージと話したことを覚えてませんでした。だから、その分を取り返すために今度ちゃんとお休みをもらって、セージと王都を観光したいと思ってます。前から行きたかったって、話したよね。賛成してくれるかな? 日にちが決まったら、またお手紙書きます。──ラマル』
丁寧に元の四つ折りにして、手紙を封筒に戻した。ため息が出る──。
「ままならないなぁ」
嬉しい……だめだと苦しくなるほど、ラマルの笑顔が眩しかった。ラマルはくつろいでいると、よく無邪気なふりをして俺に体を預けようとしてくる。どうやら俺にその気になって欲しいようだが、万が一俺がその気になったら一発でここを追い出されるだろう。
ましてや──ダフネ様に、俺もラマルを想っている。なんてバレたら……。良くてラマルに二度と会えなくなり、最悪罪人として牢獄か……強制労働だろう。
『幸い、ルシアン殿下がマルセラ様と懇意になさっております。お前がマルセラ様の為を思っていると私は理解していますが、あらぬ誤解を招きかねないのも事実。ですがルシアン殿下とより仲良くなって頂けたら、その憂いも払われることでしょう。そうは思いませんか?』
ダフネ様の言葉に、俺は同意するしかなかった。つまり、ルシアン王子とせっかく縁が出来たんだから、ラマルの興味がルシアン王子に自然と移るのを待って──あわよくば婚約までさせたい。だからなるべくラマルと関わるな。そういうことだ。
ダフネ様の前ではことさら気を付けて、“子供に好かれて悪い気はしないが、恋愛対象ではないおじさん”に見えるようにしているから、今のところ疑いはもたれて居ないはずだ。
いつまで──好きじゃないふりをすれば良いんだろうか? ただ気持ちを伝え合うことが許されないのは、何故だろうか?
厳密に言えば──法律だとか、身分だとかの問題はそれほどない。ラマルは成人しているし、貴族と平民でも、例えば豪商や一応でも騎士の位があれば結婚も可能だし、そもそも貴族位は買える。
だが何よりの問題は、俺とラマルが男女の恋愛の意味で並んだ時、犯罪臭が拭えないことだろう。ラマルが神子でなく貴族でもなかったとして、それでも周囲の人間はラマルに目を覚ませと言うだろう。
俺が変態で、ラマルが被害者だと思うだろう。……俺も当事者でなければそう思ってるに違いない。
この圧倒的にぶ厚い壁は、常識や犯してはならない暗黙の掟のようなものは──どうやってぶち破れば良いんだ?
「ははっ、勝った勝った」
机に向かっていた俺は扉が開く音と背後の声で我に帰った。慌てて手紙を封筒に戻して、日報を書いていたふりをする。
「おう、遅かったな」
「いやー、負けた奴らが離してくれなくて。あいつら雑魚だぜ、碌にカードってもんがわかってない」
賭けカードにおける駆け引きをせつせつと語ってくれる同僚に安心しながら、俺はラマルから思考を遠ざけようとした。
「それでね、マルセラ様ったらもうセージさんのことばっかり話すの。可愛いでしょう?」
ラウネとの約束通り、今日は明日が休みの為ゆっくり三人で飲み明かそうということになった。ジークはラウネの方に体を向けて、俺を存在していないかのように扱った。友情なんてそんな物なんだな……知ってた。
「やー、セージは根は良い奴ですから、うんうん」
まあな。『根は』って言い方は引っかかるものの、二人の会話が盛り上がっているのを邪魔するのも野暮だろうと、わざとらしく飲んでいますとばかりジョッキを傾けた。美味い。はぁ、と一息吐くと、ラウネの注意がこちらに移った。
「良い飲みっぷりだわ。男の人がお酒に強いのって素敵」
「そうですか? 量だけで、味なんて全然わからないですよ」
「よし、セージ。俺とどっちが飲めるか勝負だ!」
珍しく三人という少人数で来た酒場は、ガヤガヤと混み合っている。この雑多な空気と木と埃とエールのすえた臭いが、俺は案外好きだった。
「お待たせー」
狭いテーブルにつまみが乗って、新しいジョッキも運ばれればご機嫌だ。会話も弾んで、楽しい雰囲気に気の緩む会話。
「だからね。私が居ればお母様も煩く言わないんじゃないかって、そういう話になったの」
「なるほど、そいつは良いですね! ラウネさんは頭も良い!」
ジークが顔を真っ赤にして頷いている。話の内容なんてわかってないだろうが、今日は放って置く。俺は喧騒で聞き逃した内容をラウネに「もう一度」と聞き返した。
「だから! セージさんとマルセラ様の逢瀬に、私が間に入れば良いんじゃないかって! そういう話よ!」
後ろに騒ぐ集団がいるせいで、もはや怒鳴るように会話をしていた。
「わかりました! じゃあ、明日はラウネ様も一緒ってことですか?!」
「そうよ。試しに、ね?」
肩が触れる距離まで近寄ったラウネはウインクを一つして、物言いたげにこっちを見つめた。
「こらあ! 近過ぎんぞー!」
完全に出来上がってしまったジークに無理やり水を飲ませて、酒場の亭主にお勘定をお願いした。
「早いですが今日は帰りましょう。こいつをなんとか部屋に放り込まないと」
潰れて寝てしまったジークを背中に背負って、ラウネを振り返った。
「ねえ──セージさん」
酒場の中からはまだ陽気な歌だの小競り合いだのの音が聞こえる。嫌な空気を感じて、その喧騒の中へもう一度戻りたい気分になっていた。背筋を伸ばしたラウネの目の色は真剣そのものだった。
「どうしました?」
「その、他人行儀な物言い」
「悪気はないんですよ。なんだか自然にこうなってしまって」
肩に羽織ったショールを前で合わせ直して、ラウネは定まらない視線で俺を射抜いた。見つめられてもいないのに、ずっと気圧される。
「私だって女よ。なのに貴方はいつもそうね──どうして?」
「なんのことでしょうか?」
「とぼけないで頂戴。傷付くわ、こんなに私のことを袖にして。誰か将来を約束した人でも居るの? そうならはっきり言って」
ラマル──また戻って来た幻影を振り払って、言葉を考える。
「居ませんよ、そんな人。居たらとっくに結婚してます」
「マリー? というシスターさんのことが好き、ではないの?」
「な……どこでそんなこと? ラマルか。違いますよ、本当に」
ラウネの口からシスターの名前が出るとは思わず、慌てて否定した。だがそれは余計に怪しまれるだけだったようだ。
「違うの? ならどうして私の誘いに何も応えてはくださらないの? こんな扱い初めてよ、私。マルセラ様の言った通りだわ……堅物で鈍いって。でも貴方はわかってない訳じゃないわ。私からの興味や誘いが本気だって、なのに無視するの。酷い人」
「いや、それは。その……」
本気だったのか。詰問するラウネには悪いのだが、今の今までラウネが本気で俺を恋愛対象として見ているとは思わなかった。
「んん~」
背中でジークが呻いて、二人して空気が白けるのを感じた。間が抜けてしまい、ラウネは笑った。
「あははっ! ……大事なお話。今日はジークさんを送った後、もう一軒付き合ってくださるわよね?」
「わかった。ミントを連れて来るから、待っててくれ」
「ええ」
これはもう誤魔化しは効かないな。俺は修羅場っていうものに不慣れで、女性の扱いもろくにわからない。一方的にぶち切れられたことはあるが、お付き合いの場に置いて真剣な話は皆無だった。
「ミント、悪いな。こんな夜更けに」
『何よ……もう。しょうがないわね、付き合ってあげるわよ』不機嫌なミントの腹を撫でてやって、もう一頭小柄な馬にも専用の鞍を付けると、門の外で待つラウネの元へ向かった。
「馬に乗ったことは?」
「もちろんあるわ」
手綱を渡せば、躊躇いなく横のりになる。慣れているようで安心した。
道行く街灯にラウネの横顔が印象的に映える。二人共無口で、俺はただラウネに付いて行く。
二十分もした頃、ラウネはある酒場の前で止まった。馬から一人で降りて綱を結わえる。俺もそれに倣った。
「おすすめのデザートワインを。赤が良いわ……セージさんは?」
「それを二つ」
グラスが置かれてラウネは俺の方を向いた。俺も見返す。
「素敵な夜に乾杯」
「乾杯」
小さく澄んだ音を立ててグラスがぶつかった。クリスタルの高そうなグラスに、俺は口を付ける気が起きなかった。
「そうね──私が始めは好奇心だったことは認めるわ。でも、ラマルの慕う姿や貴方の誠実さに私は段々と惹かれて行った。本当に貴方と恋仲になれたら素敵だろうと、今も思っているの」
「俺は……貴方はただ、俺のことを神子の知り合いとしてキープしたいんだろうと思っていました。現にラマルとも親しくしていたようですし、ラマルはよくラウネの話をするから」
「ラマルが目的で近づいた……と? 貴方が目的でラマルに近づいたのかもしれなくってよ?」
「そんな! そんな、ことは……」
思いもよらなかった。驚いている俺に対して、ラウネは正面を向いてワイングラスを揺らした。ふわりと葡萄の香りが届いた。
「貴方もラマルも目的ではなかったわ。二人共に興味があって知りたいと思った。偶々その二人が知り合いだっただけよ」
確かに邪推して考えるよりは、ラウネの言った偶然の方があり得る話だと聞いてみて思った。俺は些か被害妄想が酷いような気がする。
「興味、とはどんなもので?」
「十六年も前……夫と生まれたばかりの子供に先立たれてしまって。ずっと失ったものを嘆いていたけど……私もまだ女として愛されたかった。子供が欲しかったの」
噂で俺が神子を助けた優しい人柄と聞いて興味を持ち、ラマルは十七歳で──自分の子供が生きていればと、つい投影してしまった。とラウネは語った。
「ラウネがとても真剣だということは伝わった。でも俺は……応えられない」
「それについてはよくわかったわ。もう気に病まないで頂戴」
呟くラウネの横顔は寂しく見えた。気に病むなとはどういう意味だろう?
「それは……」
「セージさんとラマルの間に入れる隙間はないみたい。脈がないのにいつまでもアタックしてられないから、次を探すわ」
「そうですか……」
次を探すと聞いて安心して、思わず息を吐いていた。
「どうしてあの子には好きだと伝えていないの?」
「は、え? 今なんと言いました?」
「とぼけても無駄よ。セージさんがラマルを好きだって、わかってしまったの」
あの子には言わないから教えて? と言われ、俺は自分がそんなにわかりやすい人間なのかとショックを受けた。
「いや、……俺とラマルは身分も見た目も釣り合いません。ラマルの幸せの為には俺以外の人と結ばれた方が」
「確かにそうよね、常識的に考えれば。……でも可哀想なラマル。両想いなのにそれを知ることもできないなんて」
もしラマルがこの気持ちを知れば、周囲の声など無視して俺のそばに居ようとするだろう。そして直に後悔するに違いない。
世間の目、噂話、貴族達にまで嫌がらせをされるかもしれない。ラマルを被害者だと思って引き離そうとする者だっているだろう。今のあの子をそんな辛い目に合わせたくない。
「ラマルがどんなに真剣だろうと、応える訳にはいきません。それがラマルの為──」
「またそれね。私にはセージさんが怯えていて、ラマルを出汁にしているようにしか見えないわ」
グラスを持った指に力が入る。ビキッと音を立てて脚が折れてしまった。
「うわっ、すみません! 弁償します」
赤い液体がぶちまけられて手にもかかった。お店の人がタオルと救急箱を慌てて持ってきた。
「ごめんなさい、酔ってしまったのね。ご迷惑になるといけないから、今日は帰ります」
ラウネはスッと立ち上がって充分なお金を机の上に置き、俺の手を取って店を出るよう言った。
「ラウネ、俺は」
「言わないで。貴方は何も間違ってない。今のは無責任な発言だったわ、ごめんなさい」
寂しそうなまま謝られてしまって、俺は何も言えなくなった。習性で笑おうとして、歪んでしまったのがわかった。
「ご馳走様でした」
「さっきのことは気にしないで。これからは私のこと、親しいお友達と思ってくださる? セージさん」
「ぜひ」
ラウネはもう晴れやかに微笑んでいた。それを見て少しだけ、怖くない美しい女性というのも居るかもしれないと思った。




