帰国
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五月というのに真夏のような太陽光線が頭の上からふりそそぐ。麻衣は真っ白いハンカチで首筋を押さえた。高校生の時何度も通ったこの道を麻衣はゆっくりと歩いた。
駅から続く緩やかな坂道を上がりきると周りの家とは雰囲気の違う赤い三角屋根の家がみえた。麻衣は少し立ち止まりその屋根を見つめるとまたゆっくりと歩を進めた。
家の前に着くと震える手で呼び鈴を鳴らした。
「はーい」
家の中から懐かしい声がした。
麻衣は鼓動が早くなるのを感じ思わず胸を手で押さえた。すぐにドアが開き三年前と少しも変わらない順子が目の前に現れた。
「順子さん……」
「麻衣ちゃん……」
二人はそれだけ言うと時間が止まったように動きを止めた。
「ユウは…」
麻衣は蚊の鳴くような声を絞り出した。 順子は何も言わずに頷いた。
「ユウはなんで、なんで、」
言葉にならない。 順子は麻衣に近づくと力強く抱きしめた。
「うん、うん」
順子は麻衣の頭を撫でながら何度も頷いた。
三年振りに入った優の家は何も変わらず、壁にはサーフボードがたてかけてあって、南国の装飾品が所狭しと飾ってある。
順子は泣きじゃくる麻衣の前にグレープジュースを置くと
「はい、麻衣ちゃんが好きだったやつよ 少し落ち着いたら話そうか」
と目の前に座り優しく麻衣を見つめた。
- 4 -
-昨日 藤沢駅ー
前日三年振りにオーストラリアから帰国した麻衣は逸早く洋子と会う約束をした。
麻衣は逸る思いを抑えながら早足で江ノ電の藤沢駅を降りると改札に向かった。
「麻衣! こっちこっち」
改札の向こうで飛び跳ねながら手を振る洋子がいた。
「洋子!」
麻衣も大きく手を振った。 足早に改札を抜けると二人は手を取り合い人目も気にせずにはしゃいだ。
「麻衣、元気だった!」
「元気よ、昨日の夜あんなに長電話したじゃない」
「だって声は昨日聞いたけど会ったのは三年ぶりだよ」
「そうよね、そうだよね」
ファーストフードの店に入ると二人の話は尽きることなく続いた。
「それで、結局のところオーストラリアの男はどうなのよ」
「もう、洋子なんで私に質問ばかりするのよ 学校の事とか、ビーチの事とか、カンガルーの生態なんか知らないよ! 私も洋子にたくさん聞きたい事があるのよ」
「えっ、こっちは変わりないわよ 夏はジメジメして暑いし 海沿いは混むし 夜は暴走族でうるさい、あの頃と何にも変わってないよ」
「変わりないか、たかが三年だもんね そうね」
「そうよ なにも変わんないわよ そして麻衣が戻ってきた すべて元通りよ」
「あっ ひとつ大事な事を聞き忘れた」
洋子の顔が少し暗くなった。
「な…に?」
麻衣も少し真剣な顔をして、
「どうして洋子は三つ編みやめちゃったの?」
「……なによそれ それがあらたまって聞く事なの」
洋子は声を出して笑った。
「だって三つ編みは洋子のトレードマークなんでしょ なんで切っちゃったのよ もしかしたら失恋?女の髪には特別な意味があるからね」
「そう…切ったのは去年の夏」
洋子はわざとらしくシリアスな声を出した。
「うんうん」
麻衣も身を乗り出した。
「去年の夏ね 私バイトしたのよ 茅ヶ崎のロイヤルホストで そこにね同じバイトでカッコイイ奴がいたのよ」
「その人と付き合ってすぐふられたの?」
「ちがう!何で私がふられるのよ! そいつがさ バイト中に『井上さんって三つ編みもいいけどショートにしたらもっとかわいくなるね』って言ったんだよ だから次の日すぐ切っちゃった」
「えっ それだけで すごい そしてその人と付き合ったの?」
「それが 次のバイトの時 あいつは休みだったんだけど お客としてきたのよ… 彼女つれて」
麻衣は笑いをこらえるのに必死だった
「それで」
「それでって? おしまいよ そいつの水に塩入れてやったわよ」
「洋子らしい」
「でしょ!」
二人は声を出して笑い、二人の楽しい時間は最後まで続くと思っっていた…
「あのさ、あいつどうしてる…」
麻衣のとっさの言葉に洋子の表情が一瞬で曇った。
「 … … 」
「あっ いいよ気にしなくったって あいつの事なんてもうなにも思ってないから 最後の日も結局来なかったしさ 向こうに行ってからも手紙も電話もなかったしね 所詮遊びだったんだよ ただちょっと悔しかったけどね」
「あの…あのね」
洋子の口が動かない。
「なによ、洋子らしくないじゃない どうせ哲なんかと遊びまわってるんでしょ まさか大学なんて行ってないよね あいつに限ってまさかね」
「あのね… 私、麻衣に謝らなければいけないことがあるの」
「謝るって? 何を」
「… …」
洋子は下を向いて黙ってしまった。
「なによ、さっきから おかしいよ」
「死んだの、」
洋子は下を向いたままぽつりと言った。
「えっ なに? もう一度言って」
麻衣は耳で聞いた事が理解できなかった。
「松岡ね 死んじゃったんだ」
「!! なにそれ……」
「ごめんね…麻衣」
「何で! 何で洋子が謝るの、ユウはなんで死んだの 分かんない!説明してよ」
麻衣の声は大きくなり洋子に詰め寄った。
「バイクの事故で…」
麻衣は自分を落ち着かせようと目を瞑って大きく息を吐いた。
「…… そう…」
二人の間に重い空気がたちこめる。
「それで、ユウはいつ死んだの?」
麻衣の目から自然と涙がこぼれる。
「麻衣が… 麻衣がオーストラリアに行った日に事故を起こして…」
麻衣が立ち上がる。
「ちょっ! ちょっと待ってよ! なんで! 洋子なんでよ!」
少し落ち着いた麻衣がまた取乱す」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいって、なんでよ洋子 何度も洋子に電話したじゃない 何度も洋子に手紙書いたじゃない なんで教えてくれないのよ ひどいじゃない」
洋子は動揺しつつその時の状況を話し始めた。
「新学期になっても松岡、学校に来なかったの 会ったら麻衣の見送りに来なかったことを問い詰めてやろうと思ってたの でもね一週間たってもこなかったの はじめはまたタバコでも見つかって停学なのかなって、そしたら噂が流れてきて 」
「噂、」
「松岡が死んだ…って 私はすぐに先生に聞いたのそしたら 『残念だ』って」
「残念って そんな無責任な」
「なんか松岡のお母さんが大袈裟にしないでほしいって校長に頼みに来たらしいの 詳しい事も何も知らせないでほしいって」
「順子さんが」
「うん、 私、それから松岡のお母さんに呼び出されたの」
「えっ 順子さんに?」
「うん そしたら『この事は麻衣ちゃんに絶対知らせないで』って」
「ど、どうして」
「分からない… でもね絶対、絶対ねって お願いされたの 私…断れなかった 麻衣と電話をするたび、手紙を書くたびに罪悪感で苦しかった わざと松岡の話題を避けるのが辛かった… でも今日は話そうと思った 昨日は眠れなかった 麻衣にひどい奴って思われるだろうなって…」
洋子も溜まりきれない涙がぼろぼろとこぼれた。
「でも、なんで、なんで、」
「松岡のお母さん外国に行って大事な時期だからって言ってた 心を乱したくないって」
「でも、でも、死んだんだよ 付き合ってたんだよ なんで」
- 5 -
「ユウは、本当に死んじゃったんですか」
カラカラに乾いた口にジュースを流し込み、やっと少し落ち着いた麻衣はストレートに思いを順子にぶつけた。
「うん 」
順子はひとつ頷いた。
「私、知らなかった… 三年間も、ユウの事忘れようとしてた 終わったと思ってた…」
「井上さんに聞いたんでしょ ごめんね井上さんを怒らないでね 私が無理やり頼んだの 麻衣ちゃんには絶対内緒にしてねって」
「どうして…」
「あの時の麻衣ちゃんは住み慣れた湘南から、外国に行くことになったでしょ 不安で一杯だったと思うの そんな麻衣ちゃんにあの子の重荷を持って行ってほしくなかった 日本とオーストラリア、高校生には果てしなく遠い距離 終わりでいいんじゃないかなって思った 知らなくていいんじゃないかって思ったの」
「そんな…」
「大丈夫、終わった事にしてね」
「でも、割り切れない そんなに起用じゃない 私どうしたら」
「どうもしなくていいよ 今は辛いかもしれないけど時間が癒してくれる 記憶も薄れていく それが自然でそれが一番いい その時間に逆らわないでね 強引に気持ちに優の事を焼き付けないでね 優と麻衣ちゃんの時間は真実だけど風化するのも必然だよ 前に進む事を躊躇しないでね」
麻衣は長い時間無言で涙を流した。 順子はそんな麻衣に包み込むようなやわらかい目で見つめた。
「ユウにお線香… そしてお墓にも…」
真っ赤に腫上がった瞼を擦りながら麻衣が言った。
「ごめんね 私今度引っ越すのよ それでね仏壇は実家に持って言っちゃったの うちのお墓は沖縄だから」
「引越し…するんですか」
「うん、お店も先月閉めたし やっぱりここにいると辛くてね 旦那や優の思い出ばっかりだし 私も前に進まなくちゃと思って」
「ユウの部屋、ユウの部屋ってまだそのままですか?」
「うん 大体はね 引越し用のダンボールは積んであるけどそのままよ」
「入っていいですか お別れしなくちゃ」
「うん ユウも喜ぶわ 一人で平気?」
「はい、」
二階に上がってすぐ右がユウの部屋だ ドアには暴走族のステッカーやサーフショップ、などのステッカーが貼ってある。ドアを開き部屋を入ると三年前の記憶が突風のように麻衣を襲った。
机の上には物が散乱している 矢沢永吉のカセットテープ ジッポライター ガンダムのプラモデル 一つ一つがユウの笑顔に結びつく 部屋の中をユウの記憶を確認するようにじっくり眺めた。そのとき机の端にあった手のひらに入るほどの小さな箱が落ちた。 麻衣は拾い上げるとそっと蓋を開けてみた。
中には硝子で出来たクマが入っていた
「あっ 」
麻衣はそのクマを握り締めると部屋を出た。
「麻衣ちゃん もういいの」
「あの、順子さん ユウは私が出発する日に事故を起こしたんですよね」
さっきとは別人のように冷静に順子に問いかけた。
「えっ ええ」
「ユウはなんでバイクなんかに乗ってたんですか? どこに行こうとしてたんですか? バイクも持ってなかったし免許だって無かった」
「ああ、あの優だからね 無免許運転でもおかしくないでしょ 先輩にバイク借りていい気になって海岸飛ばしてたのよ」
「ちがう… ユウあの時教習所通っててもう少しで免許が取れるって楽しみにしてた 『俺、免許取るまでは絶対無免許運転しない』って言ってた なのに遊びでバイクに乗るとは思えない」
「そうかしら、でも麻衣ちゃんどうしてそんな事聞くの」
「これ…」
「 ! 」
麻衣はクマを見せた
「順子さん言ってください ユウは私の家に向かう途中に事故を起こしたんじゃ」
「違うよ」
間髪入れずに順子は言った
「順子さん、このクマは…」
「それは…」
順子は明らかに動揺している。
「順子さん、ユウの事を聞きたい 隠さず聞きたい 最後の日のこと」