ヒロイン不在
幸いなことに、佳久也のスニーカーは玄関にあった。靴まで女物で揃えられていたら、歩いて帰れたかどうか怪しいものだ。
門まで出たところで、思いがけず知った顔に遭遇した。
「……桃香っ、薙、ぼくはね、これにはワケがっ」
「何これ、似合いすぎ。可愛いわ! どうして今まで女の子の服を着なかったの。もったいないわ!」
上がる歓喜の声。
リアクションが佳久也の予想の斜め上を行っていた。女装が見つかったときは変態扱いが普通ではなかろうか。すんなり受け入れられすぎて拍子抜けしてしまう。
「すっごい、ヒラッヒラ。こんなのよく着る気になったよね、似合うけど」
その一方で、桃香は容赦なくスカートの裾を摘んで持ち上げている。いわゆるスカート捲りというやつだ。
「引っ張らないで、中が見えるから」
佳久也が逃れようと身をよじると、男の子にいじめられている少女にしか見えない。どことなく素で男っぽいのが桃香で、女の子っぽいのが佳久也なのだ。
「あー犬、今佳久也のふともも見てたでしょ! へんたーい!」
というか、佳久也は男だと認識されていなかった。天都といい桃香といい、佳久也を女の子扱いするのはどうなのか。
「ええっ!? 俺の眼中には桃香さんしかいないっすよ!?」
薙伸は特に佳久也を女の子扱いしないが、桃香に対するのろけという名の服従宣言をする男である。
「罰として腕立て百回ね! はい、はじめー」
「すいませんっした、了解っす、桃香さんが言うならなんなりと!」
ところで暴君桃香は、やりたい放題であった。佳久也には、彼女に付いていく薙伸の気が知れない。
「あ、佳久也、元気そうで良かったわ。それはそうと、あたしのプリンは?」
腕立て伏せ中の薙伸の背中に足で体重を掛けながら、桃香は唐突に聞いた。佳久也は憐れな友人をなるべく見ないようにして、荷物を置いてきた経緯を答える。
「そういえば、全部先輩に預けっぱなし、かな。服を返してくれなくて」
「うふふふ、馬鹿鬼先輩ってば、あたしの怒りを買って無事でいられると思ってらっしゃるのかしらん」
めらめらと怒りの炎をたぎらせた桃香が、鬼ヶ島邸に向かって吠える。
「うちの佳久也を嫁にやっても、プリンは返してもらいますからね!」
「え!? ぼくは嫌だよ!? ていうか嫁って……」
またしても、佳久也と意見が一致しない。一応、双子なのだが。
そびえ建つ鬼ヶ島邸に向かって、桃香は勇壮に駆けていく。慌てて佳久也もそれに付き従う。
一方で薙伸は、ひたすら腕立ての最中であった。
「しじゅはち、しじゅく、ごじゅ、うっ……あと半分、頑張るっすよ、桃香さん。見ててくださ――い?」
視界に広がるのは、緑と花の香り漂う素敵な庭と立派な屋敷だけだった。
放置プレイでしょうか。
――いいえ、ただの放置です。