序章・白銀色の闇
※作者は動物馬鹿です。このお話には人間が一切出てきませんのでご注意ください。
ブリザードという、白銀の雪嵐が吹き荒れる真冬の北極圏。
草原に降り積もった新雪は、遮るものがなにもない大地を舐めるように襲う風によって、空から降り殴る凍てつく結晶と混じり合う。そして、そこに存在する全てのものを、冷酷な白の世界へと閉じ込めようとする。
生命を持つものが、世界に存在を否定される時と場所。
そのため、足を持ち、地を移動出来るもの、翼を持ち、空を舞うことが出来るものたちは悪夢のような白銀の嵐を避けるため、早々に雪風が弱まる森林の奥深くへと避難していたはずだった。
しかし、逃げそびれたのか、それとも何らかの理由があったのか。
……この極限の世界に蠢く黒い点が、一つ。
強風に翻弄されながら、雪にその身を埋めそうになりながら、だがしかし、一歩一歩確実に前に進んでいく、真っ白の世界にぽつん、と存在を示す小さな小さなしみ。
それは、まだ成体に成り切れていない亜成体といえども、多少小柄な印象を与える、灰銀色の年若いオオカミだった。
その灰銀色の小さなオオカミ――この春生まれたソラにとって、初めての冬だった。
一応、群れのリーダーである両親や、群れを形成する上で重要な立場にいる年上の兄姉たちから冬の恐ろしさは伝え聞いていており、彼女自身その怖さを知っているつもりだった。
「極限の寒さ」「白い闇」「風の音のしかない世界」……。口々に言う言葉は違っていたが、幼心なりに、なんとなくだが「生きていく中での試練の1つ」だと感じていた。実際に、1つ上の兄の弟妹たちは、前年の厳しい冬を生き延びることが出来なかったという。
あたしも、兄ちゃんの弟妹みたいになっちゃうのかな……。
横殴りに吹き付けてくる銀色の悪魔と必死に格闘しているうちに、いつの間にかソラは自分の家族と、群れと、仲間とはぐれてしまっていたことに気付いた。
見た目はタンポポの綿毛のようにふわふわで優しいのに、実際には容赦のない冷たさで襲い掛かってくる「雪」と呼ばれるもののせいで、三歩先は何も見えやしない。目に映る景色は、白銀の世界。ただそれだけだ。
遠吠えで、この何も無いような世界のどこかにいるだろう群れに呼びかけても、まだチビで子供で大人のように通る、鋭い声を持たないソラの声色は、風の音に掻き消されてしまうだけ。
仲間が残したはずの匂いも雪と風の嵐の中、一瞬にして吹き飛ばされる。
地上に残されるべき足跡は、まるで生きもののように這ってくる白い新雪という名の化け物により、ついたその直後に埋められ、何も無かったかのような雪原と変わってしまうため、一切何も残らない。
――聴覚も、嗅覚も、視覚も一切通用しない、一面の銀嵐。
これが、本当の「冬」なんだ。
想像ではない、本物の冬を肌で感じてその恐ろしさを初めて思い知る。
「生きていく中での試練の1つ」だなんて甘いもんじゃない。これは「生きていく中での最大の試練」だ。
このまま、群れを見つけることが出来なければ。群れの、家族の誰もが彼女がいないということに気付いて探しに着てくれることがなければ。――この狂ったような白銀の真っ只中に佇み続けていれば。
彼女に待っている未来は「死」という単語だ。そう、せっかく生まれてきたこの世界と別れを告げて、たった一頭で「死」という世界に旅立つこととなる。
――そんなのは、絶対に嫌だ。
ソラはともすれば、自分自身の存在でさえ、感覚から消してしまいそうになる激しい吹雪の中、文字通りがむしゃらに生き抜く方法を模索し始めた。
――今、自分の体力を一番奪っているのは、何だ?
この襲いかかってくる雪と呼ばれる白い結晶か?
……いや、多分違うだろう。確かに体に降り積もるそれは冷たく、体温を少しずつ、だが確実に奪っていっている。
しかし、それよりも自分の「生命力」を奪おうとしているものがある。それは……風だ。
遮るものが何もなく、前後左右、一切関係なく自分に吹き付けてくる研ぎ澄まされた刃のような突風。それが雪よりもはるかに自分の体力を奪い、死の世界へと一歩一歩誘っているのではないだろうか。
風さえなければ、自分に降り注ぐ白銀の雪嵐も多少はその勢力を落とすだろう。身を切り刻んでいくと感じるような、凍てつく寒さも少しはマシになるはずだ。
そうと分かれば、それを避ける場所を探すべきだ。
とは頭の中で理解しつつも、東西南北、前後左右、自分の周りをとり囲んでいるのは、どこまでも続く白一色のみだ。
もしかしたらどちらかの方向に、風を避けられるような針葉樹の林があるのかもしれないが、ソラがそれを探すのを邪魔するかのように吹き荒れるブリザードによって、まったく視界が利かない。
むやみやたらとそれを探し回って体力を失い、最終的にはこのただっ広い雪原の中で凍死する、という最悪の状況は全く持ってご免である。
となれば、自分で風を避ける何かを作らなければならないことになる、が。
さく。
前足で足元の雪を意識的に踏みつけてみる。
さく。さく。
白銀に、意外と深く埋もれる自分の足跡。
表面はまだ柔らかい新雪だ。下の方になれば多少硬くなっているかもしれないが、やってみる価値はあるかもしれない。
ソラは白い闇の世界を生き延びるため、勢いよくすぐそばの雪を掘り始めた。
足の先が冷たい。冷たさを通り越して、雪が足を切り裂いているような痛みだ。しかし、その痛みもだんだんと薄れ、感覚が少しずつなくなっていく。だがそれにかまってはいられない。何せ自分の命がかかっているのだ。案の定、多少掘り進めた後、雪の層は氷のように硬くなった。ついさっきまでさくさく、と音を立てて軽快に掘れていたものがとたんにガツ、ガツと鈍い音に変わる。そして氷のようにざらついた表面が、柔らかく敏感な肉球を傷つけ、爪にも負担をかけた。
肉球や爪からの出血で、外へと掻き出す雪が真っ白ではなく、薄いピンク色に染まっていく。
それでもソラは生き延びたいという一心で掘り続け、最終的に自分の体がなんとか入るような、小さいけれども無風の雪穴が完成した。
ほぅ、と一息つき、ソラは疲れた体を横たえる。
穴を掘るのにだいぶ体力を使ってしまった。外に出ることが出来ない今、自分に唯一出来ることは体力を回復することだ。一番有効的な方法は、もちろん眠ること。しかし、運が悪ければそのまま目覚めることなく凍死だ。自分が作り上げた雪穴が墓穴になってしまうことになる。
自分の生命力が勝つか。それとも大自然の非情なまでの厳しさが勝つか。
それは次に目覚めた時にしか分からない。
もし仮に目覚めることが出来たとしても、ブリザードが収まって居なかったら、自分はここに足止めされ、下手をすれば餓死、ということになるだろう。
ソラは自分の生命力、運の強さに賭けることにした。
そして雪も風も襲っては来れない雪穴の中、体を出来るだけ丸めるようにして眠りの世界へと足を踏み入れた。