2. アトリエ
土曜日、僕は奈々ちゃんと一緒に稲葉という美術部OBの自宅に訪問することとなった。
「はるくん……心配しなくても大丈夫なのに」
「え、あ……僕もちょっとアトリエって気になって」
「そうなの?」
つい嘘をついてしまった。
普通に考えればわかることだが、男性の家に奈々ちゃん1人で行かせるなんて絶対できない。
最寄り駅に到着すると稲葉が車に乗って現れた。
黒い外車だろうか、めちゃくちゃかっこいい。
あ……“車”がかっこいいんだからな、車が。
「わぁ、素敵な車……」
奈々ちゃん、見惚れてどうするんだ。
やっぱり女子って車を持つ男性に憧れるのか?
「2人とも、よく来たね。さぁ乗って」
また車が似合うな……。
良かった。僕がいなければ車に稲葉と奈々ちゃんで、2人っきりになってしまうところだった。
後部座席に僕たちを乗せて、車は高級住宅街の中を走る。そこの一番奥にある大きな一軒家が、稲葉の自宅。
「どうぞ」
「お邪魔します」
玄関も広々としていて圧倒される。
稲葉……よくわからないけど凄そうな人だな。
「アトリエは地下なんだ」
そう言われて僕たちは彼について行く。
地下へ続く階段を下りると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
一歩踏み込むと、そこは別世界だった。
白い壁には大きなキャンバスが立てかけられ、乾きかけの油絵の匂いが漂っている。
スポットライトのような天井照明が、作品をより輝かせている。窓はなく、光の加減は全て人工的に調整されていた。
木製の長い作業台には、絵の具のチューブやパレットナイフ、大小さまざまな筆が並んでいる。
壁際にはスケッチブックの山と、過去の作品のような額縁が立てかけてある。人物画や抽象画もあり、どれも目を引くものばかりだ。
外の世界から隔絶されたような密室で空気が少し重い。でも奈々ちゃんは、そんな空間であっても瞳を輝かせていた。
「稲葉さん、すごいです……こんな立派なアトリエが家にあるなんて」
「ありがとう、奈々美さん。気に入ってくれたなら……いつ来てくれてもいいんだよ?」
「え……そんな……」
稲葉、奈々ちゃんを誘うんじゃないよ。
というか、奈々ちゃんも何で赤くなってるんだ?
「奈々美さん……ここで描いてみるかい?」
「はい!」
「じゃあ竹宮君、モデルになってくれる?」
「え?」
そういうことで、僕をモデルに奈々ちゃんが人物画の練習をすることになった。椅子に座ってじっとしているが……さっきから彼女と稲葉のことが気になって仕方ない。
「筆のタッチがまだ硬いね。でもその線の迷いが逆に生き生きとしたものを感じさせる。君の感性なら、もっと伸ばせるよ」
「本当ですか!? 人物画を描くとき、いつも形にとらわれすぎて……」
「うん、形じゃなくて“呼吸”を捉えるんだ。輪郭より先に、相手の存在を空気で感じる。筆はあとから付いてくる」
「……なるほど。わぁ、すごい……」
何を言ってるんだ? 呼吸? 空気?
僕には全然わからない。
でも奈々ちゃんは、今まで見たことないくらい楽しそうにしてる。
まるで別の世界の人みたいだ――。
奈々ちゃんにこんな一面があったなんて。
だけど、どうして稲葉の前でそんなに笑顔になるんだよ。
それにやっぱり彼って距離が近くないか?
教えようとしているのはわかるけど、もう少しで顔が……。
いや、何考えてんだ。
でも……。
「できた……ねぇ見て、はるくん」
しばらくして奈々ちゃんが僕に絵を持って来てくれた。その絵はまるで僕が動き出しそうなぐらいに、生命力を感じる。ここまで上達するんだ……。
でも僕は――何も言えなかった。
描いていた時の彼女と稲葉の様子が、頭から離れない。
随分長い間……僕は2人の様子を見ていたのだから。
僕にはわからない世界を作り上げて、笑顔も眩しいぐらいだ。
アトリエの空気以上に重たい何かを身体に感じて、僕は思わずため息をついた。
「はるくん……?」
「……あ、その……お疲れ様」
ものすごく小さな声になってしまった。
それ以上何も言いたくない。
「稲葉さん。私、もっと描きたい……人の心を動かすような絵を」
「その意欲が大事だよ。君なら必ずできる」
こう話す2人に、僕の言葉なんて必要ないらしい。
帰りも稲葉に車で駅まで送ってもらった。
「本当にありがとうございました、稲葉さん」
「奈々美さん、また学校に行くよ」
いや……もう来ないでくれ。
僕たちは電車に乗る。車内でも何も話すことなくひたすら重い空気が流れていた。
駅に到着して奈々ちゃんが話す。
「あの……はるくん。もしかして……何かあった?」
彼女が心配そうな顔をしている。
「……別に。良かったじゃん。すごい人に教えてもらえて」
「はるくんの絵、プレゼントするね」
――嫌だ。
稲葉と奈々ちゃんが仲睦まじく描いた絵なんて、欲しくない。
「……いらない」
「え?」
「奈々ちゃんがあの人と描いた絵なんていらない」
「はるくん……」
彼女はうつむいてしまったが、僕だって辛い。
「もういい……奈々ちゃんは……僕がいなくたって……」
僕はそれだけ言って歩き出す。
「はるくんっ……!」
彼女が呼んでいたが僕は振り向かずに走っていく。
気づくと涙が溢れていた。
どうして泣いてるんだ、僕は。
もう訳がわからないよ……!
風が強く吹いて寒くなってくる。
それでも僕はひたすら逃げるように走る。
――ドンッ
固い胸板に跳ね返された僕は、思わず顔を上げた。
店先の灯りに照らされ、眼鏡の奥の鋭い目がじっと僕を見つめている。
この怖い顔は……まさか。
「竹宮君か……?」
ま、松永……!?
涙でにじむ視界の中で、その眼差しだけは鮮明に僕を捉えていた。




