第二話
祖母は縁側から立ち上がった。
表情は硬く、目だけが鋭く光っていた。
「…来たか」
それだけを言うと、祖母は僕を見下ろした。
母は「お世話になります」と頭を下げた。けれど祖母は返事をせず、僕に向き直った。
「学校の準備はできてるのか」
突然の問いに、僕は言葉を探した。
「…まあ、だいたい」
祖母の口角がわずかに歪んだ。笑ったのか、不満に思ったのか判別できなかった。
「できてると言え」
兄の声がした。すぐ背後で囁くように。
僕は口を開き直した。
「…できる」
祖母は頷き、縁側から奥の部屋へと歩いていった。
母が小声で「がんばってね」と言った。けれどその声は震えていて、まるで自分に言い聞かせているようだった。
僕はノートを取り出した。
「祖母は試した」
鉛筆の先が紙を削るたび、兄の存在が確かめられる気がした。
夕方、台所から包丁の音が聞こえた。とん、とん、と規則正しく刻まれる音は、どこか古い時計の針の音にも似ていて、家の湿った静けさをかき混ぜていた。
祖母は割烹着のまま鍋の蓋を開け、黙々と湯気に顔をさらしていた。
母は買い物袋を開けて、安売りの豆腐やもやしを出した。
声を交わすことはほとんどなく、台所には二人の背中と、油の焼ける匂いだけがあった。
卓袱台に並んだのは、煮しめ、豆腐とわかめの味噌汁、焼き魚。それだけだった。
豪勢でもなく、かといって粗末でもない。祖母の家の食卓は、ただ「必要なもの」が並んでいるだけだった。
「食え」
祖母は一言そう言い、箸を手にした。母も僕も黙ってそれに倣った。
味は濃かった。醤油と味噌が舌に沁みる。けれど温かさはあった。
母は箸を動かしながら、何度か口を開こうとしては閉じた。
祖母は一言も喋らず、淡々と魚をほぐしていた。
魚の骨を皿の端に並べる指は、無駄なく正確で、まるで作業のようだった。
「残すな。祖母はそれを嫌う」
兄の声がした。
僕は豆腐を飲み込み、わずかにむせた。母が心配そうにこちらを見たが、すぐに視線を落とした。
祖母が箸を置いた。
「学校は明日からだ」
それだけを告げ、茶をすすった。声には温度がなかった。指導や期待ではなく、ただ「規律」を告げるような調子だった。
食事を終えると、祖母は皿を片づけ始めた。母が手伝おうとしたが、祖母は無言で首を振り、台所へ立った。背中は小さく、しかし強い硬さがあった。
僕はノートを広げる。
「祖母は無口だ。母は弱い。僕はむせた。兄は笑った。笑い声は僕だけに聞こえた。だから、記録しなければならない」
鉛筆の線がにじむ。兄が隣に座っているような気がした。
だけど横を見ると、そこには誰もいない。