第一話
母は言った。「少しの間だからね」。
けれど僕は知っている。それは嘘だ。
父はもう家に戻らない。母は疲れた顔を隠すように、古びた軽自動車を走らせ、僕を祖母の家に連れてきた。
錆びたトタンの屋根、折れ曲がったテレビのアンテナ、湿った畳の匂いが漂う小さな平屋。そこが僕の新しい居場所になった。
兄は、もういない。
けれど僕はまだ、兄の声を聞くことができる。
「ここに書け。忘れるな」
兄の声に従って、僕はノートに鉛筆を走らせる。
それは学校で配られた安い自由帳で、表紙にはキャラクターのシールが剥がれかけている。
僕は毎日をそこに記録する。泣き声も、嘘も、学校での出来事も、母のため息も。
兄が死んでから、僕は記録しなければならなくなった。
書かなければ、兄の声が薄れてしまうからだ。
車が停まった。
母はハンドルに額をつけるようにして、しばらく動かなかった。エンジンを切ると、外の静けさが一気に押し寄せてきた。
古い瓦屋根の平屋。外壁はところどころ剥げ、雨どいは傾いている。庭には雑草が伸び放題で、色あせた物干し竿が風に揺れていた。
それが、祖母の家だった。
「…少しの間だからね」
母は笑ってみせたが、声は弱かった。僕は答えずに車から降りた。
畳の匂いが鼻をついた。湿った空気。古い柱には黒い染みが広がっている。
祖母は縁側に座っていて、僕をじっと見た。皺だらけの顔は感情を隠すように硬く、笑うことも泣くこともなかった。
「書け。忘れるな」
背後で声がした。兄の声だ。
だが祖母も母も、もちろん誰も、その声には気づかない。
兄はもういない。
けれど僕はまだ、兄と話している。
だから、ノートを取り出し、鉛筆を走らせる。
「祖母の家に着いた。匂いは湿っている。母は嘘をついた」
書き続けることでしか、兄を失わない術を知らない。