夢の中で、香りが呼ぶ
香ばしい匂いがする。
どこかで、鍋の音がしていた。
ゆらゆらとコンロの火が鍋をあたためている。
湯気の向こうに、小さな背中が見える。
その隣で、誰かが笑っていた。
「……うまいな、これ!」
弾むような少年の声。
あたしの小さな手が、木べらを握ってかき混ぜている。
「ほんと? よかった」
「また作ってな。約束だぞ」
手を伸ばした瞬間、光が溶けるように景色がほどけていった。
笑い声だけが、胸の奥に焼きついて、目の前が白くかすむ。
……誰?
あの場所、懐かしいな。
呼びかけようとしたけれど、声が出なかった。
その代わりに、風のような声が、かすかに耳元で囁いた。
――「また、食べにくるな」
そこで、目が覚めた。
***
窓の外は、朝の光で淡く染まっていた。
寝ぼけた頭の中に、さっきの声がまだ残っている。
胸の奥が少しだけざわついた。
「……変な夢」
顔を洗い、髪をまとめてエプロンを結ぶ。
厨房に入ると、ノエルさんの声がした。
「ひより、おはよー!」
「おはようございます〜」
手際よく鍋を火にかけ、森で摘んだ茸を刻む。
小さく弾ける香りが、静かな朝に広がっていく。
今日は“茸とハーブのクリアスープ”の日。
薄く透き通った出汁の中に、茸の香りとハーブの清涼感がゆらめいていた。
その香りに、ふと夢の断片が重なった。
(……あの夢の香りに、少し似てる)
あたしの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
夢の中で見たのは、小さなお店の厨房。
木のカウンター越しに、笑い声が聞こえていた。
だしと野菜の香りが混ざり合って、心がほどけていくような匂い――
でも、あの場所がどこなのか、誰といたのかは思い出せない。
ただ、
「また食べにくるな」
その言葉だけが、どうしても消えなかった。
オープンの鐘が鳴る。
扉が開いて、今日も食堂に活気が戻る。
旅人たちの声、笑い声、香り。
その中に、ひとつだけ――懐かしい声が混じった。
「……うまっ……」
あたしの手が止まる。
木べらを握る指先が、かすかに震える。
さっきまで夢の中にいた少年の言い方と、まったく同じだった。
(……この声、まさか……)
ゆっくりと顔を上げると、
カウンターの端で、スープをすする男の人がいた。
旅の装束に、少し癖のある髪。
目が合った瞬間、世界が一瞬静まり返った。
にこっ。
その笑顔を見たとき、
胸の奥がじんわりと熱くなった。
✦To be continued✦




