スープの夜に、ひらく記憶
店じまいの終わった厨房には、余熱の残る空気と、かすかに香るハーブの匂いが漂っていた。
火は消え、カウンターには洗いたての鍋が伏せられている。
ノエルさんも、おばあちゃんのトワさんも、今はそれぞれの作業を終えて、テーブルに座っていた。
ひと仕事終えたあとの、あの静けさが、あたしは好きだ。
喧騒が落ち着いて、ようやく自分の鼓動が聞こえるような気がする。
「今日はおつかれさん。ほんと助かったよ、ひより」
「ううん、大丈夫。昼の団体さんも、なんだかんだ楽しそうに食べてくれてたし」
「ふふっ、あの見回り隊は、がっつり食べたあとはすぐ眠くなるからね。あれで街の平和を守ってるって言うんだから、なんだかかわいいもんさ」
ノエルさんが笑って、あたしもつられて笑った。
そのとき、トワさんが、ふと思い出したように言った。
「……そういえば、ひより。おまえが倒れてたあの森の奥……あそこにね、昔“神殿”があったって、知ってるかい?」
「神殿……?」
「今はもう跡形もないけどさ。わたしが子どものころ、あの場所にはちっちゃな祠があってね、
よくおばあちゃんから話を聞いたもんだよ。“作り手”が昔、あの森でスープを煮てたって」
“作り手”。
どこかで聞いたことのある、その言葉が、胸の奥でふるえた。
「……それって、どういう意味なの?」
「うちの家系にね、ずっと語り継がれてきた伝承があるんだよ。
“世界の乱れは、食から整えよ”って。で、その教えを最初に唱えたのが、“最初の作り手”だったって言われててね」
トワさんはそう言って、古びた木の小箱から、小さな紙片を取り出した。
紙には、薄く、けれど美しい文字でこう書かれていた。
『たったひと匙のスープで、命はめぐる。
温もりは、心をほどき、世界をやさしくする。』
「……なんか、詩みたい」
「うん。これね、わたしのおばあちゃんが、子どもの頃に覚えたって言ってたの。
そのおばあちゃんが“作り手”と出会って、一緒に料理をしてたって話でね。
わたしも、夜な夜なその話を聞かせてもらったもんさ」
トワさんの瞳が、ほんの少し遠くを見るように細められる。
あたしはというと、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。
「もしかして……あたしが倒れてた場所って、」
「そう。ちょうど、その祠があったって場所さ。偶然にしちゃ、できすぎてるよねぇ」
そう言って、トワさんは穏やかに笑った。
──偶然じゃない気がする。
そう思った。
焦がし根菜のスープが香るとき、思い出す誰かの笑顔。
子どもの頃、夢で見た“あの人”の背中。
火のそばにしゃがんで、スプーンを口に運ぶ姿。
(……なんでだろ。あの人、笑ってた。すごく、おいしそうに)
それは記憶じゃない。
でも、記憶に限りなく近い、温度と香りのある“なにか”。
「ひより」
トワさんの声で、思考が現実に戻る。
「おまえの料理には、ふしぎと人をほどく力がある。
たぶんそれは、昔“作り手”がそうだったように、心から“食”を大事に思ってるからなんだと思うよ」
「……あたし、まだ自分のこと、何も思い出せないけど。
それでも、“美味しい”って言ってもらえると、なんか、ちゃんとここにいていい気がするんだ」
「うん、それでいいんだよ」
湯気の立たない夜の厨房に、あたしはもう一度、火を灯す。
今夜は、ひと鍋だけ仕込みをして帰ろう。
明日もまた、誰かの心をほどくために。
ひよりは、棚の奥からスパイス瓶をひとつ取り出し、香りを確かめる。
(この匂い……やっぱり、どこか懐かしい)
そうして、今日もまた、スープの香りが、記憶を運びはじめる。
✦To be continued✦




