スープの香りは、記憶を運ぶ
あたしは、今日もここで、包丁を握ってる。
焦がし根菜のスープを、丁寧に煮込む。
“いつかまた、あの人と出会える日まで。”
そう心に刻んでから、もう何日が過ぎたんだろう。
……でも、あの人って、誰だったんだっけ?
ぼんやりと、温かい笑顔だけが心に残っている。
厨房には、今日も朝から野菜の匂いとスパイスの香りが立ちのぼる。
朝一番の仕込みは、《白芋》と《クミ根菜》を細かく刻んで、低温のオイルでじっくり火を通すところから。
焦がしすぎると苦味が立つし、浅いと甘味が引き出せない。
火加減を調整しながら、タイミングを見極めて木べらでかき混ぜる。
「ひより、朝の注文表、置いとくよ〜」
そう声をかけてくれるのは、ノエルさん。
このギルドで一番頼りになる中年の料理人で、おばあちゃんの娘さん。
「ありがとー!今日は、昼に団体さん来るんだっけ?」
「そうそう。森の見回り隊の連中よ。がっつり食べるから多めに仕込んでね」
「了解でーす!」
鍋にトマトとハーブを加えて、少し水を足す。
隠し味の焦がしオニオンペーストをひとさじ。
香りが立ったところで塩をひとつまみ。
ぐつぐつ、と小さく沸いたスープの匂いが広がっていく。
この香りが、誰かの心をほどいてくれるといいなって、あたしはいつも思ってる。
──そういえば、あたしがこのギルドに来た時もも、あのスープの香りがしてたっけ。
森で倒れていたあたしの頬に、そっと触れたその手は、
朦朧とした意識の中、じんわりと温もりを伝えてきた。
「この子……冷えきってる。早く運んであげよう」
おばあちゃん――トワさんが抱きかかえてくれた時に、
懐からふっと漂ってきた香りに、鼻の奥がツンとした。
(……これ、昔、夢で見た“誰かのごはん”の匂いだ)
記憶じゃない。でも、確かに心のどこかにあった。
その瞬間、胸の奥のなにかが、ふっとほどけていく感覚がした。
あとで聞いたら、あれはトワさんが持ってた《焦がし根菜のハーブスープ》の小瓶だった。
「昔からね、香りには記憶を引き出す力があるんだよ」
そう言って、微笑んでくれたトワさんの顔が、あたしはなんだかすごく懐かしく感じた。
それからギルドでお世話になって、料理を覚えて、
気づけば、あたしも厨房に立ってる。
この世界に来て、名前以外の何も思い出せなかったけど、
料理だけは、不思議と体が覚えてた。
鍋の火加減、包丁の角度、塩のひとつまみ。
全部が、自分の中の“何か”と繋がっているような気がして、
だからあたしは、今日もここに立つ。
「ひより、焦がしスープ、もう少し追加お願いできる?」
「はーい!今、煮詰め中ですー!」
そうやって、厨房の1日は、いつもと同じように過ぎていく。
でも、その“いつも”のなかで、あたしの中の“記憶”は、少しずつ、何かに近づいている気がする。
あの人が笑ってくれた、あの味に――。
✦To be continued✦