島の片隅、旅のはじまり
「今日はもう遅い。ここに泊まっていけ」
スープの余韻がまだ残る中、じいさんはそう言って、敷布を出してくれた。
小屋の片隅に敷かれた干し草の寝床は、なんだか実家の畳より落ち着く気がした。
薪のはぜる音が、ゆっくりと夜を溶かしていく。
「……なんか、こういうの、悪くないな」
異世界だとか、魔素だとか、よくわからないことだらけだけど。
腹が満ちて、体が温まって、眠れるなら、それで充分だった。
――そして、翌朝。
朝日が、藁ぶき屋根の端をゆっくりと照らし始める。
鳥の鳴き声、薪のはぜる音。ゆるやかに満ちる朝の空気のなかで、俺は小さな背伸びをした。
「おぬし、今日は出発するんじゃろう?」
囲炉裏の前で湯を沸かしながら、じいさんが言った。
「……うん。今日、出発しようと思ってて」
「そうか。なら、腹ごしらえをしてからじゃな」
昨日の残りのスープに香草を足して、パンを炙っただけの朝食。それでも、体にじんわり沁みる。
旅立ちが、ほんの少し、名残惜しくなるような味だった。
食事を終えたあと、じいさんは外に出ると、草むらの中に腰を下ろし、空を仰ぎ見た。
「……この世界には、魔素というものがあると話したな?」
「うん。昨日のスープで、なんとなくわかった気がする」
「ふむ。それならもう少し、突っ込んだ話をしようかの」
じいさんは、火打石のような声でゆっくり話しはじめた。
「魔素の濃度はな、色でわかるんじゃ。白、薄黄、橙、赤、黒。上三つまでは、一般人でも食って問題ない。だが赤以上は、魔物と化しておる」
「なるほど……それが、魔素が濃すぎるってやつか」
「そうじゃ。普通の人間も、食べれば魔素を巡らせる。だがな、それは自身の体内で魔素を燃やし、使い切るようなもの。いわば“消費”じゃ」
「へぇ……じゃあ、俺は?」
「おぬしの場合は違う。おぬしの体は、魔素を“調和”させる。取り込んだ魔素を体内で“調和”させて、整った状態で外へと還してまわりの魔素を整える……まさに、“巡り”の体質じゃな」
「……それって、なんかすごそうだけど」
まるで俺が、自然の中の“循環装置”みたいな言い方だ。
「すごいとも。おぬしが飯を食えば、それだけで周囲の魔素が穏やかになる。土地のよどみが晴れ、人の魔物も落ち着く。食べることが、周りの癒しになる体質じゃ」
じいさんは、優しく笑った。
「ワシは長く生きてきたが、そんな体質の人間は初めて見た。……おそらく、“神の気まぐれ”だけではない理由が、そこにはある」
「……」
神様の言葉が頭をよぎる。
『まぁ、それだけじゃないんだけどのぉ……』
──そうか。あれは、こういう意味だったのか。
俺は空を見上げる。空は広く、どこまでも青かった。
「なあ、じいさん。俺、少しでもこの世界の役に立てるかな?」
「フッ、食べて、生きて、笑っておれば、それで十分じゃよ」
そんな言葉を受け取って、小さく深呼吸をしたそのときだった。
「……ところで、おぬし。どこまで行くつもりじゃ?」
「え? うーん、とりあえずは……人がいるところ?」
「なら、ちょうどよい。ワシも少し用事があってのう。出かけようと思っておったところじゃ。一緒に途中まで行くか?」
「えっ、いいの!? 船とかあるの?」
「フフ……そうじゃな。ちょっと待っとれ」
そう言ってじいさんは、腰の裏から一本の小さな笛を取り出した。
笛は、金属とも木ともつかぬ素材でできていて、ふしぎな文様が彫られていた。
ヒュゥゥゥ…………
高く、風を切るような音が空へ伸びていく。
しばらくすると
――空の彼方から、羽音が聞こえてきた。
ドゥン、ドゥン、と風が揺れ、大きな翼の影が頭上を通った。
ゆっくりと降りてきたのは、漆黒の羽毛に覆われた巨大な魔獣だった。鳥のような形をしているが、爪は鋭く、背には人が乗れるほどの鞍がある。
「な、なんだ……!」
「こいつは“カルガ”。昔からの相棒でな、食べ物さえあれば機嫌がいい。飛ぶのが好きでのう」
「すげぇ…。じいさん、ホントにただのジジイじゃないだろ……?」
「ふふ……ただの飯好きじゃよ」
カルガは、じいさんのそばにすり寄るようにして頭を下げた。じいさんが差し出した干し肉をくわえ、満足げに鳴く。
「おぬしを、いちばん近い大陸の端っこまで運んでやろう。あとは自分の足で歩いてみるがよい」
じいさんと俺はカルガの背に乗った。背中は思ったよりも安定していて、見晴らしがよかった。
カルガの翼が広がり、風をつかんだ。
ーー空が、広がった。
島が、どんどん小さくなっていく。あの小屋も、畑も、海岸も、すべてが遠ざかっていく。
あっという間に大陸が見えてきた。大陸の海岸にカルガは降り立った。
「じいさん、本当にありがとう。スープも、話も、魔獣も……」
「礼などいらん。また腹が減ったら戻ってこい。いい飯を作って待っとるからな」
「おう。そん時はまた、スープ頼むわ」
じいさんとカルガとお別れをした。
「……さあて、うまい飯を探しに行くか!」
ヒロの旅が、ついに始まった。
✦To be continued✦
次はひより視点です^_^