異世界スープ、五臓六腑に響く
―― 香ばしい匂いが、鼻をくすぐる。
「食ってみな。冷めんうちにな」
じいさんが、椀を差し出した。
野菜と香草、そしてあの魔物うさぎからとった出汁が、見事に溶け合っていた。
木の器の中で、金色のスープが波打っている。
具は玉ねぎのような甘みのある野菜と、さっきのウサギ魔物らしき薄切り肉。香草の緑もちらほら浮かび、見た目もいい。
「いただきます……!」
ゴクリと唾を飲みこみ、俺はゆっくりと口をつけた。
一口すすった瞬間、舌の奥から喉元まで、あたたかさが駆け抜けた。
舌に広がる旨味。喉を通るときのスパイスの香りと、野菜の甘みが、魔物肉の野性味を包み込むように調和している。
うまい。なんだこれ、沁みる。
旨味が層になって押し寄せ、飲み込んだ後には体の芯がじんわり熱を帯びていく。
「……うまっ……」
思わずそう呟いた。五臓六腑がほぐれるような満足感。
この一杯のスープで、自分が異世界に来たことすら一瞬忘れそうになる。
じいさんは火のそばに座って、柔らかく笑っていた。
「どうじゃ。魔素抜きのウサギ肉と“マレタの根”を煮た特製スープじゃ。おぬしの身体には合っておるはず」
「ま、魔物ってこんなに、うまいの……?」
「ハッハッハッ 本当にうまそうに食べるやつじゃのう。作りがいがある!」
「ところで……じいさん、何者なんですか?」
聞きたくなるのは当然だった。包丁みたいな武器で魔物をバッサリ倒し、極上のスープまで作る。
どう見たって只者じゃない。
「ただの飯好きのジジイさ。気ままに食って、寝て、生きとるだけじゃよ」
その肩越しに、小屋の奥から古びた地図が取り出される。
「ほれ、見てみい」
広げられた羊皮紙には、七つの大陸と、無数の島々。そしてその隅っこに、ちょこんとある小さな点。
「……この点……」
「今おぬしがいるのが、そこの“レルネ島”じゃ。大陸からは遠くてな、外の人間はまず来ん」
あまりのスケールに、俺は思わず笑ってしまった。
「……マジか。異世界転生して、地図の隅っことかある?」
「まぁ、ある意味レアじゃろ? 何もないが、魔素だけはたまってる」
「魔素?」
ヒロの質問に、じいさんはゆっくりと腰を上げ、囲炉裏に薪をくべながら口を開いた。
「この世界には、“魔素”というものが流れておる。空にも、大地にも、生き物にも、人間にも、食べ物にもな」
「へえ……」
「でな、この魔素は、“食べる”ことで体に取り込まれ、また別の形で体外に
放出され、巡るようになっとる。空気みたいなもんじゃな。」
「つまり……食わないとダメってこと?」
「そう。食わん土地は魔素がよどみ、病が広がったり、魔物が狂暴化したりする。食の乱れが、世界の乱れを呼ぶんじゃ。さっきのおぬしが会ったあれも、そういう存在じゃ」
スープの一口ごとに、話の意味が実感をともなって腹に落ちてくる。
「……なるほど。だから、うまい飯は大事なんだな」
「そう。じゃから“美味しく食べる”ことは、この世界において生命の質を高め、秩序を保つ大事な営みなんじゃよ」
なるほど。ヒロはまた一口スープをすすった。
体が軽くなるような感覚――
もしかして、これが“循環”ってやつなのか?
じいさんは、少し目を細めて俺を見た。
その視線の奥に、なにか懐かしむようなものがあった。
「おぬしには、その魔素を調律する力がある。普通の者の何倍もな。飯を食えば食うほど、周囲を癒す……そんな体質じゃ」
「……え。それって、めっちゃ都合良くない? 神様チート?」
「はっはっ。そうかもな。ただ、わしは“飯をうまそうに食う奴”が、大好きなんじゃ」
じいさんは照れくさそうに笑うと、棚の奥の小さな引き出しをガラリと開いた。
「それともう一つ、ワシからの餞別じゃ。これをやろう」
差し出されたのは、シンプルな銀のピアス。裏には刻印、表には薄く光る青白い小さな魔石が埋め込まれている。
「……これ、なに?」
「“タグ”じゃよ。ギルド登録者や冒険者が身分証明として使うものでな。魔力を登録すれば、都市間移動、旅の記録、お金もこの中にあるから決済としても使える」
ヒロはまじまじとそれを見る。シンプルだが、どこか洗練されている。
「この魔石が“個人識別”になっていてな。他人でも装着はできるが、登録されてなければほとんどの機能は制限される」
「なるほど……じゃあ、盗んで使うとかは無理ってことか」
「そうじゃ。タグは作るのにも金がかかるが……これは、ワシの手製。ギルドに持っていけば、そのまま魔力登録でお主が使える。多少お金も入っとるから好きに食べろ」
「まじ???」
「旅に出るんなら、持ってたほうがええ。グルメギルドっちゅう、食を守る者たちもおる。」
「マジで……至れり尽くせりすぎる。ありがとうございます」
ヒロはタグをそっと手に取り、自分の耳につけてみた。
ピタリと馴染む。体温で魔石がかすかに光を増した気がした。
ふと、小屋の扉から外の空が見えた。
雲が流れて、陽が差し込んでいる。
「……よし、ちょっとだけこの世界にやる気出てきたかも」
そう言って、ヒロはもう一口スープをすすった。
その味は、さっきよりも、もっと深く染み込んできた。
✦To be continued✦