厨房
ひよりに案内されて、俺は厨房の奥へ足を踏み入れた。
表の喧騒が嘘みたいに、ここは少し静かだった。
鍋の煮える音、包丁がまな板に当たる乾いた音。
湯気の向こうで、香草と出汁の匂いが混ざり合っている。
「……すみません。
急に呼んじゃって」
ひよりは少しだけ申し訳なさそうに言った。
「いえ。むしろ、ありがたいです。
厨房、好きなんで」
そう答えると、ひよりは少し驚いた顔をして、ふっと笑った。
「変わってますね」
「よく言われます」
そのやりとりを、少し離れたところでトワさんが静かに見ていた。
棚から小さな壺を取り出し、ふたを開ける。
「これはね、今日のスープに使った茸。
森の奥の、魔素が少し濃い場所で採れたものよ」
「魔素が……?」
俺が聞き返すと、トワさんはうなずいた。
「ええ。普通なら、少し苦味が立つ。
扱いを間違えると、体に重く残る」
ひよりが、鍋を見つめながら言った。
「だから、下処理を長めにして……
火も、弱めから入れてます」
そう言って、ひよりは木べらでゆっくりと鍋をかき混ぜた。
その瞬間だった。
ふっと、空気が変わった気がした。
重さが抜ける。
ざらついていた何かが、ほどけていく。
「……」
トワさんが、目を細める。
「今……」
何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
俺は、無意識に一歩前に出ていた。
鍋のそばに立っただけなのに、胸の奥がすうっと楽になる。
(……あれ?)
ひよりが、不思議そうに俺を見る。
「……ヒロさん、ですか?」
「え?」
「なんか……
さっきより、匂いが丸くなった気がして」
トワさんが、静かに息を吐いた。
「……なるほどね」
棚の奥から、小さな石板を取り出す。
魔素を測る簡易計だった。
針が、ゆっくりと――白寄りの薄黄に落ち着いていく。
「おかしいわ」
トワさんの声は、驚いているのに、どこか確信めいていた。
「火も、材料も、さっきと同じ。
変わったのは……」
視線が、俺に向く。
「……この人、だけ」
厨房に、静かな沈黙が落ちた。
俺は、思わず苦笑した。
「……あー。
それ、じいさんにも言われました」
「じいさん?」
「はい。島で会った人で……
『おぬしは、食えば周りを穏やかにする』って」
トワさんの指が、ぴたりと止まる。
「……その言い方」
ひよりと目を合わせて、ゆっくりと言った。
「——あの人そっくりだわ」
俺は、まだその意味を知らない。
でも確かに、胸の奥で何かがつながった気がしていた。
この厨房で。
この香りの中で。
俺の旅は、ひとりのものじゃなくなろうとしている。
✦To be continued✦




