モラハラ彼氏
「…省吾、これ、読んで」
私は一冊の本を差し出した。
本の表紙には、【アンガーマネジメント~今日から怒らない人間になるための教本~】と書いてある。
「……これは?」
不機嫌そうな表情で、目も合わさずに返事をする彼氏。
昨日派手にケンカして、私がブチ切れたから…ばつが悪いんだと思う。
付き合い始めて、もう六年。ずっと仲良くやってきたのに、最近彼氏が怒鳴るようになった。いつもやさしく笑っていたはずなのに、最近は顔を合わせるたびに怒鳴り合いになる。それが、とても…とても悲しい。私が好きになったのは、こんな人じゃ…なかったもの。
「このままじゃ、ダメだと思う。…私、別れたく、ない。この本を読んで…少しでいいから、大人の対応というものを、学んでほしい」
今、彼氏の仕事がうまくいってない事を知っている。
…イライラを私にぶつけて、ストレス解消をしているんだと思う。
ストレスをぶつける方は、気持ちがいいのかもしれない。だけど、ストレスをぶつけられる方は…たまったものじゃない。大好きな彼氏だからと甘やかしていたら、だんだんと図に乗ってきて、私が泣きだすまで攻撃をするようになってしまって…悲しい。いつも黙って私の愚痴を聞いてくれていた、優しい頃の姿を思い出すだけで…涙が出てくる。
「……私は、あなたが好き。でも、怒りに任せて感情を爆発させるあなたは…私の気持ちを無視して、自分の気持ちを優先させる人は、好きになれない。お願い、その本を読んで、変わって。それが、それだけが…唯一の、最後の望みなの……」
親友のマナに相談したら、危ない状態だってアドバイスされた。付き合いが長くなれば長くなるほど、遠慮の気持ちや思いやりが無くなって…モラハラする様になる人がいるんだって…。
すぐに別れた方がいいって言われたけど、私は省吾の事が好きだから、それは嫌だって、泣いた。そしたら、まだクズ男に成り下がっていないのであれば、この本を読んで元に戻せるかもしれないよって教えてくれたんだ。
「……わかった」
……よかった。省吾、私の提案に対して、怒らなかった。
怒鳴り声じゃない、私の大好きな…声。
きっと、また…昔みたいにラブラブ、できるよね……?
省吾と暮らしていた賃貸マンションに戻らなくなって、三週間。
いきなり実家に戻った私を見ても、両親は何も聞かずにいてくれてる。
掃除も、洗濯も、ご飯作りも、気遣いも…何もしなくていい毎日が、本当に楽。
省吾は私がいないと何もできない人だから、24時間ずっと気にしていないといけなくて…疲れることが多かった。
言わなければ閉めないトイレのドア、絶対に洗剤で洗おうとしないパスタを茹でたなべ、もったいない皮のむき方、カーテンを閉めないで外出する癖。飲食禁止のベッドの上でおやつを食べては言い訳をし、お風呂掃除は水で流しただけで完了と言い張り、正直なところ気苦労が絶えなかったから。
……家事や世話に追われることが無くなって、心に余裕が出てきたのか、少しだけ、寂しい。
私からLINEをしないと何も言ってきてくれないことに苛立ちを覚えながら、本は読んでくれたのか、確認する。
………。
相変わらず、言ってもらえなければやるべきことをしようとしないみたい。
……昔は、こんなんじゃなかったのにな。
真っ赤な顔で、しどろもどろになりながら私に告白してきた、高校の卒業式の日を思い出す。
一生懸命セリフを考えて、でも失敗しちゃって。
なんかかわいい人だなって思って興味が湧いて、お試しで付き合い始めて。
事あるごとに記念日を作って、プレゼントやサプライズをしてくれて。
つまんないことも多かったけど、喜んであげると嬉しそうな顔をするから…面白くて。
愚痴を吐いたら慰めてくれて、わがままを言っても笑って許してくれて。
いつしか…、何でも話せる、かけがえのない人になってた。
……なのに、どうして?
私は何一つ変わっていないのに…、省吾だけが変わってしまった。
やせっぽっちだった身体はやけにぶくぶくしてきたし、カッコ良かった天パもクルクルしてきてみっともない。いつもニコニコして目をのぞき込んできていたくせに、目を逸らす事が増えた。私を喜ばせるセリフをはかない。私の好きなミュージシャンの情報収集に余念がなかったはずなのに、勝手にアイドルグループのファンになってるし。
一生私を甘やかしてくれるって約束してたのに、忘れちゃったの……?
嘘つき!
……。
……でも、好き。
ずっと、ずっと寄り添ってくれてた、長い、長い時間が…私を苛む。
イライラしない省吾が戻って来てくれたら、私また、幸せな毎日が過ごせるよね?
私にやさしい言葉だけをかける省吾に戻ってくれたら、今までの事は…許してあげる。
省吾、お願い!
早く本を読んで、学んで…、私への愛を思い出して!!
私、いつまでも待ってたりなんか、できないよ?
あんまり待たせると、フッちゃうからね?!
イライラしながらママの作ったオムライスを食べていたら、ラインが来た。
……明日、仕事帰りに会いたいって連絡!
フフ…、ちょっとおしゃれして会いに行ってあげようかな!
駅のホーム…端っこにあるベンチに向かうと、本を読みながら待っている省吾がいた。
ヤダ、まだ……全部読んでいなかったってこと?
全部読んで学んだから、会えるようになったんじゃないの…?
どうして、万全の態勢で私に会おうとしないの……?
……ううん、たぶん違う。
きっと、読み返して、復習してるだけ、だよ…。
疑う心が生まれて、胸が少し…苦しい。
「……久しぶり」
お化粧直しもしてきてあげたし、このワンピースは…省吾が一番たくさん褒めてくれた一枚。
きっと、見惚れて……。
「……うん」
……。
どうしたんだろう。
いつもとは違う反応をする彼氏の姿を見て、胸がざわつく。
「省吾、なんか…別人みたい」
「いや、俺は…俺だよ」
……でも、むやみやたらと怒鳴らなくなったことに、ホッとする。
なんだ、ちゃんと読んでくれてたんだね。
疑って…ごめん。
「あの本の効果、バッチリ出ているみたいね。今は…ぜんぜん怖くないもの」
「そりゃ…俺だって四六時中怒ってたわけじゃないだろ?」
子供みたいな言い訳をするぐらいは…、許してあげるね。
でも、注意はしておかないとね。
「ううん、怒ってた。私、省吾にうるせえって怒鳴られるたびに、怖くて震えて…傷ついてたんだよ?」
「……まあ、本当に…うるさかったからな」
怒ってはいないけど…、乱暴な物言いが気になる。
省吾はもともと、こんな言い方をする人じゃ、なかったはずだよ……?
「ねえ、なんでそういう事言うの?そんな言い方しかできないの?私はいつだって、あなたのために、あなたを思って色々と言ってあげてたのよ!だいたいあなたは少し常識がないの、子供っぽいしすぐに言い返すし!普通はもっと彼女の事、大切にするモノなんだからね?!」
「……唯香の思い通りの対応ができなかったとは、思ってる」
私が叱ったから?
目を合わさずに、ゆっくりと話す省吾が…少し、不気味……。
でも、私の方からも、歩み寄ってあげないと、ね。
本を読んでくれたことは間違いないんだもの、そのお礼に…好きって言ってあげる。
「わかってくれて、よかった。フフ、怒らない省吾、やっぱり…大好き。これで、また一緒に暮らせるね。もう、私ばかりが我慢する生活をしなくていいと思うと、すごくうれしい…
「いや、もう一緒には暮らさない。俺たちさ、気が合わないんだよ。このまま別れよう」」
………。
…………?!
「は?!」
「転勤願いを出したんだ。来月引っ越すことにしたから、荷物、早めに引き取りに来てくれる?契約は11月いっぱいまで、12月に入ると処分されちゃうそうだよ。カギも変えるらしいから、入れなくなる前に頼むね」
ちょ…はい?!
ねえ、この人…何言ってんの?!
「何勝手な事…いやよ、別れたくない!私は別れない…あなたについていく!!大丈夫、省吾が変わってくれたんだから、絶対にうまくいくよ、今だって一回も怒鳴ってないもの!私、絶対に文句言わない!一生懸命、尽くすよ?!だって、あなたの事愛し…
「いや、俺は別れたい。お前が求めてるのは俺じゃなくて自分に都合のいい誰かだ。そもそも俺たち相性悪いんだよ、ケンカばっかしてただろ?しばらく離れてみて気付いたけど、いなくても平気っていうか、いない方が穏やかに暮らせるってわかったんだよね」」
なんで私がフラれるの?!
ありえない、ぜったいおかしい!!
私が折れて…下手に出てあげてるのに、なんでこんな態度が取れるの?!
バカじゃないの!!!
「なんで…なんで、急にそんな事言うの?!久々に会えてうれしかったのに、あたしの気持ちを考えてよ!!ねえ…ずっと付き合ってきたじゃない!あなたから告白してきたくせに!ふざけないで!!胸が痛いよ?!心が壊れちゃいそう、あなたのせいだからね?!ねえ、聞いてるの?!何でへらへらしてるの?!ちゃんと責任取りなさいよ!!あたしはただ…」
「まあまあ…落ち着いて。怒りすぎだよ、原さん。この本でも読んで、学んだら?」
駅のホームで泣き叫ぶ私を見て、省吾は気持ちの悪い笑顔を向けた。
手渡された、アンガーマネジメントの本が…憎たらしい。
わざわざ他人行儀で苗字呼びをした彼氏が腹立たしい。
怒りを…コントロール?!
こんなもんで…、私の怒りが収まるはず、ないじゃない!!!
勢いよく本を地面にたたきつけた、その時。
満員の電車がホームに入ってきて。
彼氏と、私の間に。
勢いよく、他人が…なだれ込んできた。