下
「驚きましたか?」
記憶を辿っていた意識は、青年の問いかけで現実に引き戻された。
焚き火が小さく爆ぜる音だけが、静かにこの場に響いている。
驚いているーーけれど、どこかで腑に落ちている自分もいた。
将軍と言葉を交わした、最期の日。
あのおかしな会話は、すべてこの瞬間のためにあったというのか。
『この世は、欲しいものを欲しいと言った人間に機運が巡ってくる。』
そう言った男はあの時、どんな表情をしていたーー?
唇を引き結んだままのわたくしへ、青年が少し躊躇いがちに尋ねる。
「将軍は、あなたの恋人だったんですか?」
「…いいえ。」
恋人という認識は互いになかったはずだし、そう望んだこともなかった。
一度わたくしが取引を持ちかけて、彼はそれに応じた。
あれから会話を交わすことは増えたけれど、特段、新しい関係を築いたわけではない。
「将軍と王女。それ以上でも、以下でもなかったわ。」
それなのに。
自分の命がどうなるかわからない時に、なぜ、わたくしの命を救う契機を作ろうとしたのか。
わたくしの答えを聞いて、青年はわずかに目を伏せた。
「こういう形で、あなたの記憶に残り続けるなら…話すのは少し、気が引けますね。」
「え?」
「いいえ、何でもないです。」
彼は振り払うように首を振って、ぽつりぽつりと語り始めた。
「三ヶ月くらい前かな…。
将軍の遣いだという人が、家族が留守の時に家を訪ねて来たんです。
正直、真っ青になりました。」
わたくしが彼の立場でも、同じように真っ青になると思う。
二年前に地下牢から逃げ延びた命を奪いに来たのだと、危機感を覚えるはずだ。
「僕は二年前のあの日…地下牢を出てから、あなたを城から連れ去ろうと決めていました。
色々と準備もしていたから、それが将軍にバレて、てっきり捕まえに来たのかと勘違いしたんです。」
さらりと言われて目が点になった。
「そんなに前から…?」
「はい。
…あなたに言うべきことではないかもしれませんが、負けなしの将軍が率いる王国軍も、いつかは倒されると噂されていました。
増え続ける革命軍の数の力を抑えるのも、限界があると。
だから僕も、悠長にはしていられなかった。」
彼は自嘲気味に破顔して続けた。
「僕、剣の腕がからきしで…あと馬に乗ったこともあまりなくて。
父も兄も剣豪と言われる人たちなのに、僕だけ剣ではなく筆を握ってました。
祖父に習った絵を描く方が好きだったんです。
…でもいざという時にあなたを守れないと困るので、けっこう練習しました。」
一度会っただけのわたくしのために、生活を変えたというのか。
何がそこまで彼を駆り立てたのかわからない。
驚愕するわたくしをよそに、彼は大したことはないとでも言うように淡々と語った。
「最初は革命軍が城に乗り込む時に、混乱に乗じてあなたを攫うつもりでいたんです。
でも、将軍の遣いに止められました。
走り慣れていない王女を連れて、そこかしこにいる革命軍の隙をつき、無事に逃げ切るのは難しいと。」
「なぜ、あなたがそこまでするの?」
わたくしは言い募った。
「…あなたのおばあさまが命をかけてあなたを救ったように、あなたは命をかけてわたくし救おうとしている。
でも、それがわからない。
わたくしたちは、たった一度会っただけの他人で」
そこまで言ったところで、突然「ぐううぅ」と深いところから湧き上がるような音がした。
ーーお腹だ。
間の悪いことに、わたくしのお腹は空腹だと主張し始めた。
…大切な話をしている時に、こんな恥ずかしいことはない。真っ赤になって俯いた。
わたくしが何か言う前に、青年がさっと立ち上がる。
「気が回らなくてごめんなさい。
ちょっと待ってくださいね。」
彼は焚き火の向こう側へ行って、そこに置いてあった木箱の中を探り始めた。
「消化のいいものだとこれかな。」
そう呟いて戻って来た彼の手には、林檎と小皿、それから果物用の短刀が握られている。
彼はまた焚き火の前に腰掛けると、手慣れた様子で短刀を使い、林檎の皮をむき始めた。
どうやら、お腹を空かせたわたくしに振る舞おうとしてくれているらしい。
地下牢で処刑を待っている間は、硬いパンか少量のスープしか口にしていなかった。
みずみずしい果実を前にしたのは久しぶりだ。
「さっきの話ですが」
彼は林檎の皮をむく手を止めずに、口を開いた。
「ずっとあなたのことが、頭から離れなかったんです。」
言葉は情熱的なものだったが、彼の口調はどこまでも、当たり前のことを語るかのように淡々としていた。
「あの日、時計塔に繋がる暗い通路を歩きながら、何度もあなたを振り返ったのを覚えています。
あなたは微笑んで、僕たちを送り出してくれた。
その笑顔がすごく綺麗で…でも同じくらい寂しそうで、なんというか、冷たい感じがしたんです。」
…そんなに複雑な表情をしていただろうか。
あの日のことはよく覚えているけれど、自分がどんな顔で彼らを見送ったかは曖昧だ。
彼は少し目元を緩めて言った。
「僕は地上に戻って、安心して…でもそれ以上に、またあなたに会いたいと思いました。
今度はあんな暗闇の中じゃなくて、日差しが降り注ぐ、気持ちのいい風が吹いているような、あたたかい場所で。」
そこで、彼の手が止まった。
手元に注がれていた視線が、わたくしの方へと向けられる。
彼の目は、真夜中の凪いだ水面のようだった。
月明かりを受けて、静かに輝く湖畔を見ている。
わたくしはそんな気分になった。
どこまでも静かで穏やかで…その一方で、水底に揺らめく何かがあるような気がした。
彼の視線は、また手元に戻された。
皮をむかれた林檎は手際よく切られて、小皿に並べられていく。
「…将軍は配下の者に僕を見張らせていたのかもしれません。
それか祖母と色々画策していたから、その動きで気づいたんだと思います。
いずれにせよ、僕のしようとしていることを将軍は知っていた。」
わたくしはそこで、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「おばあさまは今、どうしているの」
「亡くなりました。半年前に。」
言葉を失ったわたくしを見て、彼は安心させるように少しだけ笑んだ。
「身体を患っていたんです。
でも、最期は苦しまずに亡くなりました。」
そう言って林檎の並ぶ小皿を手に、こちらへ歩み寄り小皿を差し出す。
そこで「あ、フォークがなかった」と呟いて踵を返そうとしたので、わたくしは思わず手を伸ばし、彼の上衣の裾を掴んだ。
「…話を、続けてもらってもいい?」
彼は少し驚いたように目を瞠ったが、その場に腰をおろして、脇に置かれている古びた台に小皿を置いた。
「祖母はあまり、城でのことを語りませんでした。
でもずっと、あなたのことを気にしていて…。
僕があなたを城から攫おうと考えていると伝えた時、祖母はそう言い出すと思っていたと言いました。
それで、その時に…」
青年はそこで言葉を区切り、上衣の衣嚢を探ろうとした。
けれど林檎の果汁で手が濡れていることに気づいて、動きを止める。
「しまった。
ちょっと手を洗ってきます。そこに井戸があって」
「わたくしも連れて行って。」
手はおろか、全身土埃だらけだが、湯浴みをしている場合ではない。
井戸があるなら、わたくしもせめて手だけは洗いたかった。
立ちあがろうとしたところで、彼がこちらに腕を差し出す。
「僕も手が汚れてるので、よかったらこっちを掴んでください。」
井戸は廃墟の裏手にあった。
水を汲むバケツが妙に新しく見えたので聞いてみると、彼が「前に来た時に水を汲むバケツがなかったので、家から持ってきました」と教えてくれた。
地下から汲み上げられた水はとても冷たい。
南方のこの地は、王都と比べると夜も気温が高かったが、それでも真冬の地下水に触れれば鳥肌がたつ。
井戸に来る前に、彼があの黒い外套を羽織らせてくれていて助かった。
手をすすいでから廃墟に戻り、二人で暖をとるために焚き火を囲む。
ややあって、彼は衣嚢から折り畳んだ紙を取り出し、わたくしへ手渡した。
ーー地図だ。
フェルナン王国と、南方の隣国との国境を越えたあたりに印が付けられている。
おそらく、隣国の山あいだ。
この印の部分までは、ここからまだしばらく距離があるだろう。
わたくしが尋ねる前に、彼は口火を切った。
「そこに、祖母は家を建てていました。
何度か馬を使って見に行ったんですけど、草原と、小さな川と、花畑が近くにあって。
びっくりするほど田舎ですけど、いいところでした。」
「そうなのね。」
わたくしは王都で生まれ育ったので、彼の言った景色は童話の中でしか見聞きしたことがない。
空が広くて、雄大な自然に囲まれたその家を想像していると、彼が思いがけないことを言い出した。
「あなたが住めるように、祖母が建てた家ですよ。」
「え?」
わたくしは一瞬、彼が今なんと言ったのかわからなくなった。
彼は焚き火の前に手をかざし、絶句する私へ丁寧に言った。
「城を出たあなたが、人目を気にせずに暮らせるように。
祖母が隣国の古い知人に依頼して建てた家です。
あなたの住民登録も済ませてあるのですが、色々と大きな声で言えない偽装をしてるので」
「待って。少し待って…」
わたくしは眩暈がしそうになって、地図を折り畳んだ。
目の前の青年とその祖母は、わたくしの命を救うだけでなく、家まで用意したというのか。
わたくしは地図を彼に返して、恐る恐る尋ねた。
「…あなたは、ご家族になんと言ってここへ来たの?
わたくしは以前、あなたのお父上は革命軍の幹部と聞いたわ。
こんなことがもしも広まったら、ただでは済まされないはずよ。」
それこそ、彼と彼の家族が処刑台に連行されてもおかしくない。
わたくしは、この命を簡単に諦めようとは、もう思わない。
目の前の青年が、彼の祖母が、将軍が。
わたくしのために繋いだこの機運を、偶然の産物だと見捨てるつもりはなかった。
しかし、誰かを巻き込んで、犠牲にして得たものが幸福に繋がるとは思えない。
険しい表情を作ったわたくしを見て、彼は言った。
「家族には、幸せにしたい人がいると伝えました。」
穏やかで、けれど揺るがない声色で紡がれたその言葉が、静まり返った廃墟に響く。
「二年前、僕の命を救った人を、あたたかい場所に連れていきたいと言いました。
あなたが尋ねたように、両親にも恩返しのつもりかと聞かれました。
…でも、違う。」
青年は、わたくしを見据えて言った。
「僕が、あなたに伝えたい。
この世界にも、あたたかい場所があるんだって。
…あなたはあの時も、今も、すごく寒そうだから。」
彼の手がわたくしの手を取って、包みこむように握った。
冷え切った指先に、柔い熱がだんだんと移っていく。
「家族は、二年前僕を救ったのがあなただと知ってます。
でも、だからと言って僕がしようとしていたことを許そうとはしませんでした。特に父は。」
「…当然だわ。命を落としてもおかしくないことだもの。」
わたくしの言葉に、彼は苦笑してかすかに頷いた。
「取り柄は絵描きくらいの僕が、そもそもあなたを連れ去ることすら無理だと。何度も言われました。
でも祖母が亡くなってから…風向きが、少し変わったんです。」
懐かしげに語る彼の横顔には、焚き火の影が揺れていた。
こんなことがなければ、今この瞬間も彼は、家族と共に平和な日常を送っていたのだろう。
心ゆくまで、好きな絵を描きながら。
「母から聞いたんですけど、祖母が亡くなる少し前に、父と二人で何か話し合っていたみたいで。
実を言うと、処刑台を囲む革命軍の配置を教えてくれたのは、父なんです。」
「…その事実が広まれば、あなたもあなたの家族も、無事ではいられないわ。」
「大丈夫ですよ。僕の家族は仕事柄、裏工作とかそういうのが得意なので。」
彼の家族まで、この逃亡劇に加わってしまっていたなんて。
大変な事態なのに目の前の青年は全く動揺していない。
よほど肝が据わっているのだろう。
「家族とのことは、結果的に僕の粘り勝ちですね。
こうなるまでに周りの力を借りてばかりでしたが。」
彼は恥じるように目を伏せたが、間をおかずにその眼差しをわたくしに向けた。
「でも、今日のあなたを見て思いました。
もっと早くに連れ去ることができればよかった。
力が及ばずに、すみません。」
そう言って、彼は頭を下げた。
ーーこの期に及んで、彼はなぜ謝っているんだろう。
頭を下げてまで。
わたくしは言葉を失った。
呆れて、ではない。
複雑な感情が胸の中を渦巻いて、唇を噛み締めるしかなかった。
彼は、こんな場所にいていいはずがない。
断罪されるべき王女のために、命を懸けるべきではない。
そう、思うのに。
この手の温もりをどうしようもなく、離しがたく感じた。
空っぽの暗い部屋に、窓の向こうから一筋の光が差すような感覚。
これは、何…?
戸惑うわたくしの脳裏をよぎったのは、あの日の将軍の言葉だった。
『たとえ困難が待ち受けていても、幸福を追求する覚悟を忘れないでください。』
あの日わたくしとあの男は、らしくない問答をしていた。
『望めばよろしい。
その代わり、覚悟をお持ちください。
求めるものに手が届くまで、時間がかかったとしても、決して諦めはしないと。
誰かが幸福になったあなたを非難しても、あなたはご自身の幸福から逃げないと。』
あまりに彼が言い募るものだから、根負けして。
おかしな会話だと思いながらも、わたくしは確かに宣言したのだ。
『幸福を…望みます。
もしもその機運が巡ってくるなんていう、不可思議なことが起きるなら』
不可思議な機運は、果たして予想もしない形で巡ってきた。
ーーこの世は、欲しいものを欲しいと言った人間に機運が巡ってくる。
その言葉は真実であり、そして真実となるよう、力を尽くしてくれた人々がいた。
「……わたくしは」
諦め、逃げてばかりの自分が嫌いだ。
何にも向き合おうとしなかった自分。
変わりたい。
変わらなければならない。
「わたくしは、知りたい。
誰かを思いやり、そして思われて生きていく…そこに宿る愛というものが、どんなものなのか。
願わくは、あの城では見つけられなかった幸せを、これから見つけていきたい。」
ずっと、手を伸ばしているだけだったから。
これからは自分の足で歩いて、望んだものが見つかるかもしれない方へ歩いていく。
わたくしの紡いだ言葉を聞いて、青年は目元を緩めた。
「それなら、その幸せを見つけられるように、僕があなたの隣にいます。
形のないものを一人で探していくには、この世界は広すぎるから。」
焚き火が、また小さく爆ぜる。
その時、不意にわたくしの心の中に、小さな何かが灯るような感覚を覚えた。
今のわたくしに、それが何なのかまではわからない。
けれどそれは確かに存在していて、凍てついたものを少しずつ溶かしていく、小さな、小さな灯火だった。
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春の香りをまとった風が、辺りをゆるく吹いていた。
さわさわと心地よい音を紡ぐ草原が一面に広がる丘を、わたしは一人歩いている。
二輪、青い花を持って。
立ち止まったのは、名前の刻まれていない二つの墓標の前だ。
墓標といっても、平らで大きい石をそれに見立てた簡易的なものだった。
ちょうどいい大きさの石を見つけるのがなかなか大変だった。
わたしはその場に膝をつくと、花を一輪ずつ、墓標の前に置いた。
はるか上空に広がる晴れ空を写し取ったような、鮮やかな青い花びらが目を引く。
丘を下ったところの森に群生していて、それはわたしがこの地に来て最初に見た花だった。
この地へ来たばかりの日々の記憶が蘇る、思い出の花。
「やっぱりここにいた。」
後ろから届いたその声に、わたしはゆっくりと振り返った。
あたたかそうな手編みの肩掛けを抱えた彼が、少しだけ息を切らせてそこに立っている。
どうやら、急いで追いかけて来たらしい。
「春先はまだ冷えるから、暖かくしてと言ってるのに。
そろそろ羽織るものを持って外に出る習慣をつけたほうがいいよ。」
困ったように微笑みながらそう言って、わたしにそれを羽織らせた。
「…ありがとう。でも少しくらいなら平気よ。」
唇を尖らせたものの、大人しくそれを羽織る。
以前に同じような状況で「今は要らない」と断ったその日の夜、わたしは悪寒が止まらなくなった。
また体調を崩すことを避けたいのは勿論、その時の彼の心配ぶりを見てからというもの、注意はなるべく聞くことにしていた。
すると、墓標に添えた花に気づいた彼がぽつりと呟く。
「早く夏にならないかなあ。」
「…夏が好きだったの?」
首を傾げるわたしに、彼は頷いてみせた。
「うん。日差しが強い分、水面が輝いてすごく綺麗で…そういえばここから少し東に行ったところで、湖を見つけたんだ。
夏になったら見に行こう。」
わたしたちがこの山間の地にやって来て、もうすぐ一年半経つ。
家の周りに二人で農地を作り、動物を飼って生活の基盤を作ったけれど、自給自足で全てを賄っていくことは難しい。
ここから数時間馬を駆けた所に、いくつか街があるので、月に何度か訪れていた。
大陸南方のこの国は、比較的温暖な気候と豊かな土壌に恵まれていた。
それを求めて多くの人々が集う。
各地から人が集う分、国中に大小さまざまな街が点在している。
そこには大抵賑やかな露店街があって、行商たちも行き交っていた。
彼は祖父に教わった絵を、わたしは編み物や縫い物を。
正体を隠しつつそれらを売りなら、なんとか生計をたてていた。
余裕のある生活ができるのはとうぶん先になりそうだったが、豊かな自然に囲まれた暮らしは、染み渡るように心を癒していく。
安らぎのある、あたたかい日々。
傍らでわたしを見守ってくれる、穏やかな眼差し。
わたしの宝物は、少しずつ増えていく。
新しい生活は、まだ始まったばかりだ。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。