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最初に耳に届いたのは、火が爆ぜる音。


冷たい風が頰を撫でるのを感じて、揺蕩っていた意識が浮上する。

わたくしは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。


ーーここは、どこだろう。


何度か瞬くと、目の前の光景が鮮明になった。


見えたものは、空。

散りばめられた星々が煌めく、澄んだ夜空が視界に広がっている。


わたくしは、屋外で寝かされているらしかった。


「あっ。気が付きましたか?」


声がした方に顔を傾ければ、数歩離れたところに焚き火があってーーその前に腰を下ろす、年若い青年と目が合った。

どうやら火に木の枝をくべていたらしい。


彼は眉尻を下げて、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「かなりの速さで馬を駆ってきたので、負担をかけてしまってすみません。

気分はどうですか?」


馬ーー。


そうだ。

あの時、わたくしが処刑台に上がろうとしたところで、煙が立ちこめて。

咳き込んでいたところを、突然馬上に引っ張り上げられた。


処刑台で尽きるはずだった命が、奇しくも今こうして続いている。

話ぶりから、この青年がわたくしを連れ去った人物だということがわかった。

それに……記憶が正しければ、わたくしは前にも一度、彼に会ったことがある。


いや、それよりもこんなことがあってはならない。

革命が成し遂げられた今、彼のしたことは逆賊の行いだ。


なぜ、こんなことをーー?


そう尋ねようと口を開いたものの、喉が詰まる感じがして、わたくしは盛大に咳き込んだ。

それを見た青年が慌ててこちらに駆け寄ってくる。

蓋を外した筒を差し出して言った。


「水です。少し身体を起こせますか?」


わたくしが上体を起こそうと身じろぎすると、彼は背中に手を添えて助け起こしてくれた。

そこで、身体に掛けられていた布が黒い外套だったことに気づいた。


筒を受け取って、ゆっくりとそれを傾ける。

冷たい水が喉を潤していった。


周囲に視線を向けると、ここは森林の中にある廃墟のようだった。

天井が抜け落ちていて、向こうには崩れた壁や炊事場の跡らしきものも見える。

廃墟の入り口にある柱には、わたくしたちを乗せていた栗色の馬が繋がれていた。鞍は外されている。


わたくしの視線の先を追って、青年が言った。


「空き家になってから、ずっと放置されていたみたいですね。

ここは王都からずっと南の山奥です。

何度か獣道を通らないと辿り着けない場所なので、追っ手に見つかることもないですよ。」


「……あなたは」


わたくしは、穏やかな表情で周囲を眺める青年に言った。


「あなたは、どうしてこんなことを?

…まさかとは思うけれど、二年前の恩返しのつもり?」


咎めるような口調になってしまったが、構っていられない。


彼は……二年前、わたくしが地下牢から連れ出した少年だった。

わたくしと同じくらいだった身長はぐんと伸びて、頭ひとつ分ほど高くなっている。

端正な顔立ちの中に、あの時のあどけなさは残っていない。


二年の間に、彼はずっと大人びていた。

けれど、その瞳は変わっていなかった。

地下牢で惨い仕打ちを受けて、心身を傷つけられて、それでもなお消えない光を宿した瞳。


「あなたが、こんなことをする必要はない。」


彼が処刑を中断させたあの乱入者だと知れれば、彼自身も、その家族も、どうなるか分からない。

命を奪われても文句は言えないだろう。


わたくしの言葉を聞いてから、彼は不意に立ち上がった。

焚き火の方に戻って、再び木の枝をくべる。


「恩返しではない、とは言い切れないかもしれません。

きっかけはあなたの言う通り、二年前の地下牢の件でしたから。

でも、これは恩返しというより…僕と祖母のエゴです。」


その言葉に、震えながら少年の手を引いて城を去った、老年の侍女の姿が脳裏をよぎる。

彼女はあの日を最後に、姿を見せることはなかった。


少年が地下牢から逃げたことが、翌日には城中に知れ渡るかと思いきや、秘密裏に人質交換を行ったという話にすり替わっていた。

将軍はわたくしに言わなかったけれど、巧妙に情報操作した結果だろう。 


そんな将軍の命も、一ヶ月ほど前に戦場で尽きたと聞いた。


かつては不敗の将軍と言われたあの男も、勢力を急拡大していった革命軍の、圧倒的な数の力を前にしては敵わない。


そして青年は、思いがけないことを言った。


「正確には、僕と祖母と…将軍の、ですかね。」


「将軍?」


前者の繋がりは理解が及んでも、ここに将軍が絡んでくるのはおかしい。

眉をひそめたわたくしに、彼は言った。


「あの賢い馬も、さっき使った煙幕も。それにこの廃墟の在処も。

すべて将軍が、あなたのために僕へ託したものです。」


「どういうこと…?」


信じられない。

あの男が、なぜーー。


言葉を失いながらも、将軍と言葉を交わした最後の日のことを思い出していた。




✴︎ ✴︎ ✴︎ ✴︎ ✴︎ ✴︎ ✴︎ ✴︎ ✴︎





その日は、今から三ヶ月ほど前。

軍議の報告のために、将軍が謁見の間を訪ねた帰りのことだった。


わたくしはその時何を思ったのか、廊下を歩く彼を呼び止めて、おかしなことを尋ねたのを覚えている。


「ねえ。わたくしって、そんなに若い時の母に似ているかしら。」


二年前のあの日以降、将軍と夜を共にしたことはない。

けれど不思議な事に、すれ違っても挨拶を交わすだけだったわたくしたちは、会話をすることが増えていった。


将軍は怪訝そうにこちらを見やって、少し考える素振りをした。


「今日の姫様は、珍しいことをおっしゃいますね。

…そうですね。容姿はとても似ていらっしゃる。」


容姿はと言ったので、それ以外…つまり内面には差があると暗に言っているのだろう。


「では、似ていないのはどんなところ?」


追求すると、将軍は「率直に申し上げるなら」と前置きした上で続けた。


「妃殿下のほうが、愛想が良ろしいのではないでしょうか。」


「…………」


失礼な男だと思ったが、聞いたわたくしがいけなかった。

判断力に長けた彼が、客観的な事実を見誤るはずもないので、反論のしようがない。


押し黙ったわたくしを見て、将軍はふっと口元を緩めた。


「では姫様。あなたのご質問に答えましたので、年寄りの戯言にも少々お付き合いくださいますか。」


「年寄りって…たしかあなた、今年で四十二でしょう。

六十過ぎの大臣たちに聞かれたら睨まれるわよ。」


「おっと。これは失敬。」


そう言いながら、全く悪びれた様子はない。

将軍は気にせずに続けた。


「この世は、欲しいものを欲しいと言った人間に機運が巡ってくる。

私はこの歳になって、常々そう感じております。」


将軍の瞳は、どこか遠い所を見つめているようだった。


「私のような人間が申し上げることではないと、重々承知ですが。

姫様はもう少々、ご自身のお望みを口にする努力をされたほうがよろしい。」


落ち着いた口調だが、その言葉には芯があった。

わたくしは立ち止まって将軍を見据える。


「…突然どうしたの?」


将軍もややあって足を止めた。

彼との間に、数歩分の距離が生まれる。


「姫様がご自身を知ろうとしていらっしゃるのであれば、大変喜ばしい傾向だと思いまして。」


「先ほどの母と似ているか、という質問のことを言っているの?

残念だけど、そんな大層な話ではないわ。」


将軍は振り返った。

静かな眼差しがわたくしに向けられる。


「あなたの望みを、こんな私でも多少は察しています。

どんな金銀財宝も望めば手に入ったはずだが、あなたは求めなかった。

あなたの欲しいものは、富でも権力でもない。」


会話を交わすことはこれまでもあったが、今日は今までの会話と雰囲気が違う。

早々に話を切り上げてこの場を去りたい衝動に駆られたが、こちらを見据える瞳がそれを許さなかった。


「誰かを愛し、誰かに愛されるということ。

それが一体どういうことなのか。

あなたはその答えを、探し続けている。」


「だから、なんだというの?」


「この城の中で、その答えを見出すことはできない。

そろそろお気づきになった方がよろしいのではないかと、私は思いますよ。」


踏み込んだその発言に、心の奥に怒りが湧き上がる。ーーしかし、すぐにそれは霧散した。


感情を発散させたところで、何も変わりはしない。

この城の中がわたくしの全てであり、それはこれまでも、これからも同じなのだから。

脱力して、わたくしは歩みを再開する。


「…そうかもしれないわね。でも、もういいの。

どういうものかはあの日、あなたたちが教えてくれたじゃない。

たとえすべてを理解できたわけではなくても、今のわたくしにはそれが分相応なのよ。」


将軍の横を通り過ぎようとしたその時、彼の大きな手がわたくしの腕を掴んだ。


「欲しいものを欲しいと言った人間に、機運が巡ってくる。

私はそう申し上げたはずですが?」


「あなたは説教がしたいの?」


彼らしくない。

こんなまどろっこしい問答に、いったい何の意味があるのか。


「手を離して。」


掴まれた手を振り払おうとしても、びくともしない。


「おっしゃってください。ご自身のお望みを。」


将軍は頑なにそう言った。

わたくしは譲ろうとしない彼を睨みあげた。


「もういいと言ったはずよ。望みなんてない。

そんな不確かなものを後世大事に抱えて生きていけるほど、わたくしの世界は優しくない。」


内側で滲むように広がっていく感情に、わたくしはひどく乱されていた。

それを抑え込もうと手のひらを握りしめたけれど、耐えきれなくなり、言葉が滑り出ていく。


「わたくしは王女で、傍観者で、国民に嫌われていて、この城が大嫌い。」


もう何年も、両親と兄姉の利己主義に見て見ぬ振りをしてきた。

国民の助けを求める声、悲しみの声、怒りの声ーー全てから逃げて、耳を塞いで。


「父も母も、兄や姉たちも。みんな嫌いよ。嫌い。」


そう、嫌いだ。

大嫌いだ。

同じ家に生まれた血縁者なのに、わたくしたちは赤の他人ほどに距離が遠い。

自分勝手で、どこまでも残酷で。


しかしわたくしは、彼らよりも嫌いなものがある。


「…わたくしは、」


言葉を続けようとして、言い淀んだ。


ーー心が、苦しい。どうしてだろう。


食い下がる目の前の男に、もっともっと、胸に燻る何かをぶつけてやろうと思ったのに。

次いで出た言葉は、ひどく頼りないものだった。


「嫌いよ。…わたくし自身が、一番。」


こんな時に、なぜ涙がせり上がって来るのだろう。

悲しくなどない。泣く資格もない。

それはわたくし自身がわかっているはずなのに。


「何よりも、自分のことが、大嫌いなの。

ただでさえ見向きもされないのに、目障りな行動をして、家族に切り捨てられるのがずっと怖かった。」


手のひらを握りしめて、わたくしは言葉を続けた。


「だから逃げ続けた。

国民の声からも、自分からも。

何にも向き合わずに心を殺して、大人しくいれば…本当の孤独から、逃げられると思っていた。」


それなのに。

今この心にあるものは、ひどい空虚だった。


何もない。

必死で守ってきた何かは、ただの虚だった。

それに気づいた時、わたくしは身震いした。


「…何をしたかったのかしら。」


堪えきれずに溢れた涙が、一筋、二筋と頬を伝っていくのがわかった。

もう遅い。何もかも。


俯いていた顔を上げて、微笑みを作る。


「あなたの言う通りね。

わたくしの欲しいものは、この城では見つからない。

愚かなことに、それに気づくのが遅すぎた。」


それにね、とわたくしは付け加えた。


「そもそもわたくしには、求める資格がないのだわ。

わたくしだけがあたたかい場所に行こうとするなんて、許されない。…そんな自分を、わたくしは許さない。」


無様なわたくしを将軍は黙って見下ろしていたが、やがて口を開いた。


「あなたは愛し、愛されるという、幸福な未来を辿る資格が、ご自身にはないとお思いだ。

そんなことは許されないし、そんな自分を許せないと言う。」


将軍はようやくわたくしの手を離して、代わりに涙が伝う頬を拭った。


「あなたがご自身を許さないと言うなら、私があなたを許しましょう。」


ーー許す?

何を言っているんだろう。

この男にとってわたくしは、退屈しのぎ以外の何ものでもないはずだ。


将軍を見上げると、その瞳は先ほどよりも柔らかい光を宿していた。


「望めばよろしい。

その代わり、覚悟をお持ちください。

求めるものに手が届くまで、時間がかかったとしても、決して諦めはしないと。

誰かが幸福になったあなたを非難しても、あなたはご自身の幸福から逃げないと。」


諭すように、しかし有無を言わせない強さをもって、将軍は言った。


「たとえ困難が待ち受けていても、幸福を追求する覚悟を忘れないでください。」


その真摯な言葉に、わたくしはなんだか押し負けたような気分になった。

あまりに彼が譲らないので、無意識のうちに口元が緩んでしまう。


「……わかったわ。」


とりあえず望むと口にしなければ、この場から解放してくれなさそうだ。


なんておかしな会話だろう。

そう思いながら、わたくしは言った。


「幸福を…望みます。

もしもその機運が巡ってくるなんていう、不可思議なことが起きるなら。」


「大変、よろしい。」


その時、将軍は少しだけ顔を綻ばせた。


彼と交わした会話は、それが最期だった。




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