上
革命によって地位を追われた王族の末路ほど、悲惨なものはないだろう。
罵詈雑言を浴びながら、広場の処刑台まで無理矢理引き摺られ、上から降ってきたギロチンによって一瞬で命を奪われるのだ。
手縄が皮膚に食い込んで痛い。
身にまとう擦り切れたぼろ布は、四方から飛んでくる怨嗟の声からも、凍てつく冬の寒さからも、わたくしを守ってくれはしない。
いやーーぼろ布だけではなかった。
父も母も、兄姉たちも、わたくしを守ってくれたことなどなかったではないか。
富と権力、己の自由と欲望。
あの人たちが守っていたものは、それだけだった。
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フェルナン王国は、王族の富と引き替えに、長きにわたって国民へ圧政を強いていた。
のしかかる税は年々重くなり、勇ましくも不満の声を上げた庶民派議員たちは牢屋へ放り込まれた。
彼らがその後、どんな扱いを受けたのかは想像に易い。
末の王女は、自分がなぜこの世に産み落とされたのか不思議に思うほど、両親からも、兄姉からも興味関心を向けられずに育った。
ーーいや、末の王女に限った話ではない。
王家の人間は、金銀財宝を愛でつつ、酒と色に溺れる日々が送れるのなら、他はどうでもよかったのだ。
とはいえ、幼子は育てなければ育たない。
当然ながら人の手によって保護し、養育する必要があるので、末の王女のそばには侍女がいた。
いつも淡々と仕事をする、老年の侍女だった。
彼女は先代国王の治世から仕えており、庶民の出だが優秀で、城で重宝されていた。
しかし末の王女と侍女の間にあるのは、冷えきった主従関係のみ。
言葉を交わすのも必要最低限で、互いに喜怒哀楽を相手に示すことはない。
それでも、末の王女を育てたのは彼女だった。
末の王女が十八になった年、奢侈に耽る王家を排すべく、とうとう王都で革命軍が蜂起した。
王国軍と革命軍の間で武力衝突が起こり、双方数多の犠牲者が出た。
騒動の最中、王国軍によって革命軍の幹部の息子が捕らえられ、王城の最下層にある牢に繋がれた。
まだ十五の少年を殺さずに牢へ繋いだのは、言わずもがな温情などではなく、交渉と尋問に使うためである。
少年が捕らわれた翌朝のことだった。
これまでただの一度も感情を露わにしなかった老年の侍女が、起床した末の王女のもとに縋りついた。
目を瞠る末の王女に構わず、侍女は皺だらけの顔に幾筋もの涙を走らせて、震えながら言葉を紡いだ。
「昨晩、城の地下深くに捕らえられたのは、私の孫です。
私が身代わりに牢に入りますから、どうか、どうか孫は外へ出してやってください。」
お願いします。
お願いします。
どうか、お願いしますーー。
何度も、侍女は繰り返した。
末の王女は黙ってそれを聞いていたが、やがて口を開いた。
「地下牢の鍵は、すべて将軍が管理しているわ。
将軍から盗むか、受け取るか。
牢を開けるには、その二択しかないのよ。」
縋りつかれても、末の王女にはどうしようもないのだ。
どうにかしてやりたいかーーと問われても、正直わからない。
末の王女は、少なくとも自身が記憶している人生の中で、感情が大きく動いた経験が一度もなかった。
喜びが、怒りが、哀しみが、楽しいと思う心が。
何ひとつ、理解できなかった。
しかし末の王女が何よりもわからないと感じたのは、侍女が見せた、自分の命に代えても誰かを助けたいと思う心だった。
なんのために?
なぜそう思うの?
全くわからなかった。
が、どこかで『わかってみたい』とも思った。
それは儚く小さな望みのようで、隠された切望のようでもあった。
胸の中に湧き上がった望みを明らかにすれば、目の前に広がる白黒の世界に、少しは色がつくような気がした。
侍女は、愛しい孫が助かったらどんな顔をするのだろう。
助けられた孫は、どんな顔をするのだろう。
末の王女は生まれて初めて、自分の意思でひとつ、行動を起こすことにした。
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わたくしは、たったひとつ、将軍に関して知っていることがあった。
彼が一国の将に上り詰め、最強の武人と謳われるまでになったのは、果たして何のためか。
いや、誰のためなのか。
革命軍が起ってからというもの、将軍は度々行われる軍議や決裁といった机仕事に追われ、休息を取る暇もないらしい。
どれくらい忙しいのかといえば、日を跨ごうとしているこの時間を執務室で迎えるくらいには、仕事に追われているようだった。
それでも、真夜中に突然訪ねたわたくしを迎える将軍の顔に、疲労の色は見えない。
歴代最強と名高い偉丈夫は、穏やかに言った。
「姫様。このような時間にいかがいたしましたか。
お呼びいただければ、こちらから馳せ参じましたものを。」
わたくしは一歩、将軍に歩み寄った。
「教えて欲しいことがあるのよ。」
そう。わたくしには目的がある。
地下牢の鍵が欲しい。
でもそれは、侍女の願いを聞き届けるためではない。
わたくしは知りたい。
人と人を繋ぐ、形のない糸について。
自分の命を失ってでも誰かを救おうとする、その思いについて。
愛なんていうーー陽炎のような、不確かなものの正体を。
わたくしは知っている。
将軍が、若い頃の母と瓜二つと言われるわたくしに向ける瞳。
そこに時折宿る、激情を。
将軍はわたくしの母を、王妃を愛している。
それももう長いこと。
しかし幼馴染みだという二人の間に、それ以上の関係はない。
王妃は昔から、王に心酔していた。
たとえ王のまことの心が、自身を映していないと分かっていても。
将軍は、そんな王妃をただ見つめていた。
永遠に届くことのない激情を、胸の奥底に持て余して。
身も心も手に入ることはない。
それなのにどうしてあんな女へ、その剣だけでなく、心をも捧げようと言うのだろう。
将軍の胸に、手を伸ばす。
「教えてくださる?わたくしにも。」
ここに燻るもの。
侍女が孫に向けるものとは、違うけれどーー
あなたのそれも、愛のひとつであるならば。
地獄へ進んでいくわたくしへの餞に、どうか教えてほしい。
わたくしの指先をとって、彼は恭しく口付ける。
「ーーこの無骨者が、姫様にお教えできることがあるならば。御心のままに。」
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真夜中の地下牢は、ひどく冷えていた。
それでも寒さに耐えて、古びた螺旋階段をくだり続ければ、最下層に簡単に辿り着いた。
見張りの衛兵は姿を消している。
一本道を進み、真新しい錠前のついた牢を見つけて、持っていた蝋燭であたりを照らした。
「誰?」
こちらが話しかけるより早く、警戒を隠さない、誰何の声が響く。
蝋燭の火を声の方に掲げると、顔も手足も傷だらけの少年が牢の向こうに座っていた。
壁に背中を預けてぐったりしているものの、こちらを見据える眼差しは強い。
わたくしは頑強な錠前に、細い鍵を通した。
ひねると、外れた錠前が鈍い音を立てて落ちる。
牢の扉は、驚くほど簡単に開いた。
「あなたは、誰?」
目を丸くして問う少年の顔つきは、どこかあどけない。
わたくしは微笑んだ。
「あなたたちに、教えを乞う者よ。」
そう言って、わたくしは後ろに控えていた人物を振り返る。
「さあ。教えてくださる?わたくしにも。」
次の瞬間。
わたくしの横をすり抜けて、ついてきていた侍女が転がるように少年に駆け寄った。
その腕は強く、強く少年を抱きしめる。
侍女は声をあげて泣いていた。
繰り返し、繰り返し、少年の名前を呟きながら。
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王城の二階。
西の廊下を進んだ最奥部。
その左手には、王家の者しか知り得ない隠し扉があった。
それは王都のはずれへと繋がる地下通路になっている。
わたくしは侍女と少年を後ろに連れて、その扉へ向かっていた。
地下牢と地上を繋ぐ螺旋階段を上っていた時、少年が沈黙を破った。
「こんなに寒いのに、あなたはなぜそんな薄着なの?」
あなたーーとは、言わずもがな、わたくしのことを指していた。
少年は祖母と再会したためか、先ほどよりも警戒心が緩んだらしい。
訝りながらも、こちらを気遣うような心が込められた声に、わたくしは口元をほころばせた。
「どうしてでしょうね。
……でも、ぶつけられた執念が、あまりに重くて、熱くて。
ずいぶん歪んでいるけれど、あれも愛というものなのかしら。」
「……?」
次いで問おうとした少年を、侍女が制止する。
そうね。
わたくしも、あなたが聞く必要のない話だと思うわ。
しばらく歩いて、ようやくわたくしたちは目的の隠し扉に辿り着いた。
一見するとただの壁だが、しかけがある。
壁の一箇所を強く押すと、その部分と、腰の高さにあるもう一箇所が自動で凹む仕組みになっているのだ。
自動で凹んだ部分を覗き込むと、その奥に扉の取っ手が現れていた。
取っ手を掴んでひねりながら押すと、通常の扉と同じようにして壁が開いた。
その向こうは、真っ暗闇に包まれた一本道が延々と続いている。
王都のはずれに時計塔があり、その塔の地下に繋がる道だ。
それを伝えてから、わたくしは持っていた蝋燭を侍女に手渡した。
「塔主はこの時間、最上階で眠っているわ。
誰にも見つからずに地上へ戻れるから。」
蝋燭を受け取る侍女の手は、小刻みに震えていた。
こころなしか、蝋燭の火で照らされたその顔も、血の気が失せているように見える。
…なぜ、そんな顔をするのかしら。
「これは、正当な対価よ。
あなたは鍵を望み、わたくしは愛というものをこの目に見せて欲しいと望んだ。
わたくしの望みは、あの地下牢で叶えられたわ。」
彼女が見せた愛というものに、わたくしは満足した。
将軍が見せたそれよりも、わかりやすい。
愛しいものへ向ける心の在り方も、表し方も、一通りではないらしい。
すると、不意に少年の手がわたくしの腕を掴んだ。
「あなたも行こう。」
思いがけないその一言に、わたくしは首を傾げる。
もしかして、わたくしがこの城で捕まっていた仲間だと思っているのかしら。
…ああ、でも無理もない。
真夜中にこんな薄着でうろつく人間が王女だなんて、想像もつかないだろう。
「わたくしは、行かないわ。」
腕を掴む少年の指を、一本一本、外していく。
「安心して?あなたたちを逃しても、殺されたりしない。
でもね、必ず戻ると将軍に約束したの。
わたくしが夜明けまでに戻らなければ、わたくしたちの後ろをついてきている人に、あなたたちは捕まってしまうわ。」
少年がはっとしたように、歩いてきた廊下に視線を向けた。
閨で交わした約束を、将軍は義理堅く守ったらしい。
わたくしたちのはるか後方に見張りの者をつけ、それ以外の衛兵は一時的に退けられていた。
「…僕を助けるために、あなたが犠牲になるの?」
わたくしは笑って、首を左右に振った。
「犠牲じゃないわ。
あなたたちは、わたくしが求めたものを見せてくれた。
先ほども言ったけれど、これはその対価なのよ。」
少年の目は、わからない、と言っていた。
代わりに侍女が、深く、深く頭を下げる。
わたくしは躊躇う少年の肩を掴んで、時計塔へ続く通路の方を向かせた。
「さあ行って。
長い道のりでしょうけれど、歩いていればそのうち辿り着くから。」
少年はそれでもわたくしを振り返る。
その目元が長年そばで仕えていた侍女とそっくりなことに、そこで気づいた。
侍女に手を引かれ、ようやく二人が揃って通路を進み始める。
「ーーさようなら。」
二人の影は徐々に遠くなっていく。
途中、何度も片方の影がこちらを振り返るのがわかった。
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二年後。
将軍が討たれたことをきっかけ、王国軍は大きく体勢を崩し、勢いを増した革命軍にとうとう敗北を喫した。
王城に立て籠っていた王族は捕らえられ、処刑の日まで最下層の地下牢に繋がれることとなった。
処刑当日、王都には数年ぶりに雪が舞っていた。
王城の地下牢から一人一人、王族が連れ出され、王都の広場に設置された処刑台でその命を絶たれていった。
最後の一人は、齢二十の末の王女だった。
薄汚れた姿にも関わらず、処刑台を取り囲む群衆は一瞬、その美しさに息を呑んだ。
土埃にまみれているが、透けるように白い肌、精巧な人形のように整ったその美貌。
誰にも侵すことのできない何かが、彼女に宿っているかのように見えた。
しかしそれも束の間。
彼女が憎き王族である事実に変わりはない。
重い税で貧困にあえぐ民を顧みず、己の欲望のままに生きた許しがたい存在。
再び怨嗟の声が飛び交った。
末の王女は、喚くこともなく、涙することもなく、ただ先導人によって縄を引かれ、歩いていた。
その瞳は処刑台に向けられているようにも、虚空を見つめているようにも見えた。
彼女が処刑台に登ろうとした、その時。
突然、一部の群衆から悲鳴があがった。
何が起きたのかと広場がざわつき始めてすぐ、東側の人垣にいた誰かがものすごい声量で「避けろ!」と叫んだ。
声に反応して、そちらの人垣が割れる。
そこへ飛び込むように躍り出たのは、革命軍の騎馬に跨った、黒い外套を纏う人物だった。
顔は兜で覆われている。
即座に、乱入者を捕獲するよう革命軍の指揮官の指示がとんだ。
処刑台の近くに控えていた軍人たちが抜剣した、次の瞬間。
何かが破裂するような音が二、三回響きわたり、再び群衆の悲鳴が轟く。
瞬く間に濃い白煙が立ち込め、広場は恐慌状態に陥った。
そんな中、視界が悪いにも関わらず、乱入者は馬を巧みに操って処刑台に突き進む。
一方、末の王女は、処刑台の前で大きく咳き込んでいた。
立ちこめる煙を大量に吸い込んでしまい、ギロチンにかけられる前に息が止まりそうだった。
その刹那、末の王女の腹部に何者かの腕が回された。
その腕はすごい力で彼女を引っ張り上げる。
ーー正確に言えば、抱え上げたのだ。騎馬の上に。
末の王女を捕まえたのは、革命軍の騎馬に跨る乱入者だった。
乱入者は彼女を前に抱えて、強かに騎馬を蹴る。
合図を受けた騎馬が一気に駆け出した。
処刑台まで縄を引いていた先導人は、それを手放して一目散に逃げていたため、乱入者は容易に末の王女を連れ去った。
煙の中を突き進み、人垣を飛び越え、騎馬はあっという間に広場を抜けて、人もまばらな王都の裏通りを疾走した。
周囲の風景に、どんどん自然が増えていく。
瞬く間に切り替わった状況に、末の王女は理解が追いつかなかった。
しかし今は、騎馬の振動と吹き付けてくる強風、そして身体に蓄積した疲労で、意識を保つのに精一杯だ。
背後の外套をまとった人物が、叫ぶように言った。
「このまま王都を抜けます。もう少し耐えてください。」
騎馬は力強く走り続ける。
末の王女は懸命に騎馬の鞍を握っていたが、やがて意識を失った。