第17章 3 マリヤ
マリヤは、自分が書いた分の紙を二人に渡した。そして、しっかり隠された顔をジナイーダに近づけた。
「久しぶりだね」
ジナイーダは眉をひそめた。この女、声に聞き覚えがあると感じているのかもしれない。あるいは、なれなれしい奴とただ軽蔑しているか。
「あたしの顔は、覚えているだろう?」
マリヤはジナイーダの眼前でさっとベールを取った。
ジナイーダがぐっと身を引いた。突然現れた、傷だらけの顔に嫌悪の表情を隠そうともしない。アカトフの顔も引きつっている。マリヤは眼帯もとった。眼球を摘出した痕が露わになった。
「ようこそ、ジナイーダ。アカトフさん。最後に会ったのは警察署の前だったね?」
カッターでマリヤの顔を切り裂いたジナイーダと、彼女を乗せてさっさと逃げ出したアカトフが目の前にいる。復讐心も湧き起こらず、マリヤは冷静に言った。
「あんたたちのお望み通り、コーリャの話をしよう。いや、正確には、コーリャのお母さんの話だ」
アカトフが身を乗り出した。マリヤは苦笑する。
「コーリャのお母さんはね、マリウポリでは有名な才女だった。キエフ国立大学を卒業したばかりで、就職したのも有名な会社だ。おまけに、かなりの美人。コーリャにもその血は受け継がれてるけどね」
アカトフが小刻みにうなずいた。
「侵攻が始まった当時、彼女は実家の近くで一人暮らししていた。仲の良かった兄さん夫婦とも親交があり、互いの家を行き来していた。彼女は明るく、誰に対しても優しかった。皆の天使だなんて呼ばれていた」
それを教えてくれたのは、コーリャの伯父たちだった。秋に、ウクライナにいる伯父一家と連絡をとった。
コーリャの伯父から聞いた彼女の昔の話は、どれも楽しく、愛情に満ちていた。子どもたちは何度も議論した結果、彼女の思い出話は最小限に留めることにした。
こんな奴に聞かせて、思い出を穢したくない。
「しかし、マリウポリはロシア軍の集中砲火を浴びて、一時は最悪にまで追い込まれた。彼女が一人で自宅にいた時に、戦車に乗ったあんたたちが街に乗り込んできた。彼女を含め多くの市民が、自宅で息をひそめるしかなかった。どうか通り過ぎてくれと願う彼らの思いとは裏腹に、ロシア軍は手当たり次第に民家の扉を押し破り、隠れていた人たちを引っ張り出して蹂躙した。彼女を見つけたのは、あんただった」
マリヤは左の目で、アカトフを見据えた。
「アカトフさん。あんたが、怯える彼女に何をしたかは、よく知っているだろう。彼女を……気に入ったあんたは、彼女の心が壊れるまで自分のしたいことをした」
アカトフは笑みを浮かべた。
「最高だった」
「そうだろうとも」
マリヤの傷だらけの顔から、怒りは読み取れない。その気になれば、彼女は感情を隠すのが上手かった。
「マリウポリが占領されてから、あんたの部隊は街を離れることとなった。彼女を連れていきたがったけれど、上官にはねのけられたそうだね。ようやくあんたから解放され、兄たちに保護された彼女のお腹には、赤ん坊が宿っていた」
コーリャは、今も廊下で話を聞いているはずだ。つい、早口で済ませてしまいたくなる。
「あんたと彼女はそれっきりになったかと思われた。彼女は息子とひっそり暮らしていたし、あんたは戦後モスクワに戻った。だけど、あんたはずっと彼女に執着していた。観光客を装って何度もマリウポリ周辺にやってきては、彼女を探し続けた。上客として観光会社の社長に顔とプロフィールを覚えられるほどに」
社長を説得するのは大変だった。マリヤは懐かしく思い出す。記者やフョードルの手を借りて、脅したりおだてたりしてやっとアカトフについての話を聞き出した。
「あんたはマリウポリで、売春宿を中心に探した。彼女が売春婦になっているという不思議な確信があったからだ。しかし、13年目にしてやっと、予期せぬところで手がかりを見つけた」
コーリャだ。
「ツアーに添乗してきたガイドの助手が、彼女に生き写しだった。そうだね? だから、コーリャに近づいたんだ。あの子を質問攻めにして、何とか母親の情報を聞き出そうとした。そして、ホテルに泊まったそのツアーの中日に、あんたはコーリャの鍵を盗んだ」
「盗んだ? 借りたんだ」
マリヤは無視した。
「社長が白状した。あんたにしつこく頼まれ、コーリャの住所を教えたことを。あんたは当然、コーリャの家にその夜行ったんだろう。そして、コーリャがシロンを連れて家に帰ってきた時、彼女は首を吊って死んでいた」
アカトフはうなだれた。あれは残念だった。悲しむコーリャの前ではさすがに口には出来なかったが。せっかく再会した理想の女とその息子は、いずれモスクワに呼び寄せて本物の家族にしてやろうと思っていた。
「彼女にその夜何があったのか、あたしたちは知らない」
マリヤは厳しい顔で言った。
イルクーツクからウクライナに連れ戻される直前に、やはりウクライナ人だった幼なじみの女の子が自殺した。彼女も、ウクライナに帰れるはずだった。死を選んだ理由はマリヤには分からない。ただ、彼女の養い親は泣きながらウクライナの両親を責めていた。あんたたちが今さら来なければ、彼女は何も知らないまま幸せに暮らせていたのに、とか何とか。
「あたしの話は終わりだ」
その時、ジナイーダと目が合った。彼女は、激しい怒りを浮かべてマリヤを睨んでいた。
彼女からは、本当に嫌われているようだ。だけど何とも思わない。マリヤはそのまま二人に背を向けた。




