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第17章 2 シロン

 客間の中では、アカトフがまた腰を下ろしたところだった。

「初めまして」

 シロンは深々と頭を下げた。ジナイーダの感情のない視線と、アカトフのぎらついた目が怖い。自分はオレグのようには開き直れない。

 シロンは、オレグと同じように、持ってきた紙を配った。同じ品質の紙だ。ただし手書きの筆跡は先ほどとかなり異なる。神経質な角張った文字をアカトフは睨みつけた。

「僕が、話すのは、……ウクライナとの戦争についてです」

 フョードルがアカトフの側についている。いつ彼が激高しても、シロンを守れるように。

「2022年2月、ロシアの陸軍は、ウクライナとの国境付近及びベラルーシに進軍しました。軍事演習という名目で、兵士や海外向けの広報にはそう触れ回っていましたが、同月下旬には、ウクライナのドンバス地方及び首都のキエフに急襲をしかけました」

 自分が全く覚えていない戦争。正直感慨はほとんどない。あるはずがない。自分はいつも、何だかんだで安全な場所にいた。父の無事を祈る母も、ウクライナの意外な抵抗に憤る親戚も、爆撃などは決して来ないところで、映画でも見るようにテレビの中の戦争をああだこうだと批評していた。

「誰もが、キエフは数日で陥落し、ウクライナの当時の政権は崩壊し、その後釜に親ロシア政権が発足するのだと思っていました。クリミアと同様に、ドンバスはたやすくロシア領になるのだと喜びの祝杯を揚げていました。

 しかし、現実は大きく異なっていました。ウクライナ軍は持ちこたえ、西側諸国から次々と援助を受けてロシア軍を苦しめました。おびただしい数の兵士が死に、人手不足を解消するため、一般人に軍隊の公募をかけることになりました。あなたは、かつて追い出された身ではありますが、どさくさに紛れて陸軍に復帰しました……」

「大きな間違いだ」

 アカトフはせせら笑った。

「俺は、乞われて復帰したんだ。俺を知る昔の仲間たちは、俺の力が必要だと懇願してきた。どさくさだの、追い出されただの……」

「す、すみません」

 シロンの顔は赤くなった。しかしその時、ジナイーダが確かに彼を見て、微笑んだ。何の悪意もない、励ますような笑みだった。

 それで、シロンは言葉を続けることができた。

「陸軍に戻ったあなたは、5月まで激戦が続いたマリウポリに投入されました。あなたの所属する部隊は、規律が緩く、敵地での多少の悪事はむしろ推奨されていました。……当時の士官による証言もあります。僕の父も、この部隊にいたはずです」

 アカトフは眉を動かした。おや。この小僧に似た男はいたっけな? だが思い出せはしない。あそこでは、男は皆同じ顔に見えた。味方も敵もどんどん死んで入れ替わり、名前を覚える必要もなかった。


 シロンは、口をつぐんだ瞬間に顔を歪めた。父さんの話はするつもりじゃなかった。でも、意識しないで口にしたということは、いつも頭の片隅に父さんがいたのだろうか。

 父さんそのものの記憶はなくても、父さんを巡る母さんやばあちゃんたちの嫌な思い出はどっさりある。


 カザンにいた時、母さんは、ばあちゃん__父さんの母さんとの関係で苦労していた。ばあちゃんは明らかに母さんを毛嫌いしていて、母さんがいない場所でひどく口汚く罵っていた。母さんも、僕にばあちゃんの悪口をどんどんはき出した。

 ある時、僕はばあちゃんに聞いてみた。親戚の皆がいる前で。

『どうして、お母さんが嫌いなの?』

 その時ばあちゃんは、母さんもいる中で__僕を抱きしめてこう答えた。

『あんたのお父さんを戦場に行かせたのが、あんたのお母さんなんだよ。息子があいつと結婚しなけりゃ、戦場に行って金を稼ごうなんて思わなかっただろうに__』

 その言葉を聞いていた母さんは、言い返すこともできずにうつむいていた。それから少しして、母さんは友達も多かったカザンから引っ越し、誰も知り合いがいなかったモスクワにやってきた。僕が余計なことを言ったせいで。言葉にしなければ、逃げ出す必要もなかったかもしれないのに。


 僕はいつも、母さんにとって余計なことばかりしていた。ウクライナへ行こう、そこで死のうと提案したのだって、母さんにとっては大きなお世話だったんだ。



 ぽん、と誰かがシロンの肩を叩いた。マリヤだ。顔をベールで隠している。

「もう終わり? 次は、あたしだね」

 彼女はいつもと変わらない調子で囁いた。

「お疲れさん。ゆっくり休んでおいで。あんた夕食もろくに食べてなかったろ」

 シロンは顔を拭い、うなずいた。逃げるように去る彼のことをアカトフはもう見ていない。黒いベールを被った謎の女の子に目を奪われている。



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