第3章 1 アリアズナ
2035年になると、ウクライナ侵攻から始まった一連の戦争は、ロシア国内ではすっかり忘れ去られているかのように思われる。今では所構わずZの文字を書き殴る者も激減し、デモを街中で見かけることもない。ウクライナへの人々の関心は日々の生活苦の中に埋もれてしまった。
ところが、戦争の痕跡は至る所に残っている。ウクライナまで出かけなくても、指一つで簡単にアクセスできる沢山の証拠が。
例えば、それは13年前から定期的にアップロードされている一連の動画である。撮影場所や時間は異なるが、その全てがある女の子を主人公とした短い動画だ。
最初に投稿された動画では、まだよちよち歩きの少女がにこにこ笑いながら画面の向こうの私たちに向かって手を振り、おもむろに両手を合わせて大きく一つのアルファベットを空中に描いた。Zである。ぴったりのサイズのロシア民族衣装を着た彼女の可愛らしさも相まって、瞬く間にロシア人の人気者となった。彼女がウクライナ出身であることは動画でも公開されており、ロシアの行う「解放」戦争がウクライナ人にも支持されていることを印象づける動画であった。
それ以来、半ば成長記録のようにして彼女の動画は公開され続けた。どの動画でも彼女はZを強調し、舌っ足らずな口調でロシアへの信頼と新生活への期待を伝えた。小学校に上がる年齢になってからは化粧をそのすべすべの肌に施し、スケート選手のように髪を結い上げ、知的な一面をも見せつけた。彼女は滑らかな口調でロシア政府の偉大さを賞賛した。中年の学者との議論をすることもあった。
彼女の名前は、今でも有名である。アリアズナだ。ロシア国内だけでなく世界中に彼女の動画の視聴者がいる。コメント欄を開放すれば、ロシア語、英語だけでなく各国の言語で応援などのコメントが寄せられる。
2035年2月24日、その日も彼女の動画が1本アップロードされた。小さかったアリアズナは、もう15歳である。それでも、大人顔負けの根気の良さで動画を上げ続けている。その上、学校でも成績は常にトップクラス、生徒代表を務める才女ともっぱらの噂である。
この時の動画では、彼女は珍しく髪を下ろしていた。艶やかな茶髪を手でもてあそびながら、アリアズナは視聴者に向けて呼びかけた。
「こんにちは、親愛なる皆さん。いつも応援してくれてありがとう。今日はですね、ええと、とてもショッキングな話を聞いたのだけど……」
アリアズナはそこで少し言いよどむ。渡された台本はちゃんと覚えているから、この間も計算の上だ。
「私の大好きなこのロシアには、他にもウクライナ生まれの子どもたちがいます。でも、自分のことをとても不幸だと思っているそうなんです。私、びっくりしちゃった。その子は、自分たちがまるでロシア人に誘拐されたみたいに思っているみたいなんです……」
彼女は少し笑った。馬鹿馬鹿しい、という気持ちを伝えるために。
昔から彼女は演技が上手かった。どうすれば一番自分の意図を伝えられるか、本能で理解していた。また、嘘をつくのも優れていた。
「それって、何というか……被害妄想なんじゃないですか? 私もウクライナ生まれだけど、今の生活の方が絶対良いわ。ウクライナは何もかも駄目。ナチの巣窟なんだもの。あのままウクライナで育っていたら、きっと私、今頃ネオナチになってしまっていたわ。それって、とても恐ろしいですよね? こうして動画を撮っていても、全く間違ったことをお伝えしていたかもしれないのね」
彼女は話しながら、部屋の隅に立っている義母に目を向けた。義母はアリアズナのマネージャーでもあった。2歳の頃、Zの描き方を教えてくれたのも彼女だ。義母がいなければ、今の人気者のアリアズナはいなかった。
義母は大きくうなずき、手で丸を作った。それでアリアズナは安堵して再びカメラに視線を戻す。
「折角同じ国から来たんだから、そんなウクライナの子とも仲良くなりたいなって思います。だから、今、ここで発表しちゃおうかな。私、ウクライナ人のためのクラブを作ります。どんな活動をするかっていうと、ロシアに不満を持っているウクライナの子を集めて、ロシアの良さを一緒に勉強しようってクラブです。勿論、私は生徒じゃなくて講師になるかなあ。あ、でも、友達にもなりたいから、とっても優しく教えてあげちゃいます、約束。入会料だって安くしちゃおうかな。一人三百ルーブル、会費は一月百ルーブルでいいです。概要欄にアドレスを貼っておくので、是非クリックして下さいね。じゃあ、また次の動画でお会いしましょう、愛国者の皆さん! ロシアに永久の栄光がありますように」
撮影が終わると、アリアズナは長い溜息をついた。義母が寄ってくる。
「ご苦労さま。最初に髪をいじっていたけど、あれはやめた方がいいわね。落ち着きがなく見えるから」
「はい」
「まあでも、それ以外は合格。きっとクラブの入会申し込みが殺到するわ。今のうちに名前を決めておかなきゃね。アリアズナ・クラブなんてどうかしら?」
「それは……ちょっと恥ずかしいです」
「何を今更。あなたありきのクラブなのよ。大丈夫、内容を考えるのは私たち大人なんだから」
「はい」
「いい、あなたはできるだけ魅力的に映っていればそれでいいの。それで今まで上手くやってきたんだから。余計なことなんて考えちゃだめ」
「……はい」
義母に知られていた。動画を撮り続けることに、アリアズナは最近少し疲れている。
「明日は、学校に行けそう?」
「……まだちょっと、頭痛がします」
「そう。なら休むのね。でも美容ケアだけとトレーニングだけは怠らないで。成績なんてどうとでもなるけど、見た目は誤魔化せないんだから」
「はい」
素直にうなずくアリアズナを見て、義母は満足した。部下がこの娘の元気がないと報告に来たからこうして話しかけたのだが、問題はなさそうだ。自分に逆らう兆候すら見えない。臆病な子だから、反抗を考えることすら頭に浮かばないのだろう。
義母はアリアズナの頭をぽんと一度だけ軽く叩き、先に撮影用の白い部屋を出ようとした。その時だ。
「あの、」
アリアズナがおずおずと呼びかけた。
「何?」
「SNSのメッセージを見てみてもいいですか?」
「あなた宛の?」
「はい」
義母は唇を舐め、苦笑した。
「駄目よ。どのみちメッセージは届かないようにしているし。数が多すぎてスタッフにも迷惑がかかるのよ」
そして、アリアズナが答える前に義母は今度こそ出て行った。
アリアズナはポケットから、買い与えられた携帯を取り出した。15歳にもなるのにフィルタリングが強固にかけられ、SNSを始めることもインターネットにアクセスすることもできない。まともな機能といえば、ゲーム、音楽、メールと電話くらいだ。
それでも、アリアズナは知っていた。1本動画を上げれば、毎回500を優に越える中傷のコメントが届くことを。以前、学校に登校した際に同級生に見せられたからだ。彼らは明らかに面白がっていて、アリアズナを侮辱するコメントの数々を教室内で読み上げた。売国奴。国にさっさと帰れ、偽ロシア人。女優気取りの不細工。卑怯なプロパガンダ。
事務所に帰って忙しい義母に泣きついたのは、去年の冬だったろうか。義母は珍しく優しく慰めてくれて、学校にはもう行かなくていいと言った。それでも、動画を削除しようとは言わなかった。
本当は、カメラの前に立つのが怖い。世界中の見えない人々が皆自分の敵になったかに思えた。もう、自分が人気者なんてとても信じられなかった。
今までも、褒められるのは大人たちからばかりで、同年代の子どもたちからはむしろ馬鹿にされるか、嫌な顔をされることが多かった気がする。それでも、単なる嫉妬で、それはあなたが素晴らしいことをしているからなのだと義母がきっぱり言ってくれたから、アリアズナは頑張ってこれたのだ。だが、十五歳になり、世間の声が思わぬところから飛び込んでくる今、アリアズナの世界は根本から覆されそうになっている。
私がしていることは、本当に正しいのだろうか? 本当は皆のいうようにとんでもない勘違いで、世界中の笑い者にされているんじゃないか?
クラブの講師なんて、とてもできない。同じ年頃の子たちの目が何よりも怖い。彼らはアリアズナをちやほやしてはくれないから。本当のアリアズナは何一つ自分の頭で考えたことのない、脳みそ空っぽの馬鹿女だと暴かれるんじゃないかしら?
早く帰りたいカメラマンに促され、アリアズナはようやく立ち上がる。大人たちだって、誰一人自分からは目も合わせようとしない。自分の味方は誰もいない。