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第12章 3 各々の悲しみ

 静かな公園に、彼の叫び声が響き渡る。昼間事件があったというのに、警官は巡回していないのだろうか? シロンの声を聞きつけて駆けてくるお巡りはいないようだ。

「本当に__臆病かどうか__拳で試させてやろうか?」

 オレグがドミトリーを振りほどこうと息をきらせながら、シロンに怒鳴った。

「暴力は勇敢さの証明にはならないよ」

「やめなよ、シロン。さっきからおかしいよ」

 コーリャはシロンを宥めるのに必死である。

「シロンも言い過ぎだよ」

「そいつが絡んでくるからだ!」

 シロンは再び叫んだ。

「被害者ぶって、どうせ弱いものいじめが得意な顔だけ優等生のくせに!」

 この言葉で、ドミトリーまで顔色を変えた。まずい。コーリャはシロンの口を塞いだ。ドミトリーたちに大事な秘密を守ってもらっていることを忘れていないか? 彼らが少し警察に口を滑らせるだけで、コーリャやシロン、仲間たち全員が危機に晒されるというのに。

「もう、帰った方がいいね」

 まだ冷静な調子でドミトリーが言った。

「頭を冷やさなきゃ。な、オレグ」

「……ああ」

 ぐいと頭を振ることで不承不承同意を示し、オレグはシロンから目を逸らした。オレグもシロンも、互いに謝ることはない。どちらも、自分より相手が悪いと信じている。今すぐに妥協や反省を促すのは無意味である。

 高ぶった気分が少し落ち着いて、誰も喋らなくなると、夜の闇に紛れて冷ややかな悲しみが四人に忍び寄った。シロンはここで人が死んだという事実をいち早く思い出し、逃げ出したくなると同時に、彼女が一連の話を聞いていたらと考えた。きっと、無関心な自分を真っ先に恨むのだろう。ウクライナ人という属性に真剣に同情したことは一度もない。コーリャやマリヤたちの不運は確かに悲惨だが、自分たちよりよっぽど楽な生活をしているウクライナ出身者を多く知っている。戦争以前からモスクワに住んでいた起業家や、終戦後に国籍を移したスポーツ選手たちだ。シロンを嘲う同級生の中にも、ウクライナの子は何人かいた。

 ウクライナ人であることがそんなに不幸か。少し自慢げ(と、シロンには思えた)に自分の生い立ちを話すオレグに強い反感を抱いた。そんなにモスクワにいるのが怖いなら、マリヤのようにウクライナに帰ればいい。コーリャのように外国を旅してみればいい。タチアナだって、殺される前に逃げればよかった。


 彼女が逃げたくても逃げられなかったことを、オレグは知っていた。タチアナの遺体には、縄で縛られた痕が残っていたという。同じ質の縄が木の枝にくくりつけられたまま残っていて、その下の地面には血が滴っていた。

彼女は裸で発見された。どんなことをされたのか、馬鹿でも想像できる。

 タチアナの死を悼み、犯人に憤るには、オレグと彼女の距離は遠すぎる。事件が起きるまでは存在すら知らなかった。葬式にだって参列できない。それでも、彼女の写真を新聞で見る度に、或いはこの公園に立っている間中ずっと、腸が煮えくり返る。無性に苛々して、誰でもいいから怒りをぶつけたくなる。たまたまシロンが不謹慎なことを言ったから、オレグは嬉々として襲いかかったのだ。

 彼女が発見された現場にはテープが張り巡らされていて、立ち入ることができない。だがオレグは、花を買って密かに持ってきていた。だが、激しく動く間にポケットの中で花は潰されてしおれかけている。苦労して見つけた見事なひまわりだったのだが、花びらがいくつか剥がれて取り出す頃には不格好に枯れているだろう。


 オレグがタチアナという少女の死に動揺していること、ドミトリーには意外に思えた。それに、彼女を自分に投影する気持ちが理解できない。確かに痛ましい事件だ。おそらくほんの数時間の差で、犯人やタチアナに出くわさなかったことを幸運に思った。だけど、もうすぐ事件は忘れられる。捜査の経過など報道されないし、自分だってオレグがわざわざその話題を持ち出すまでは忘れかけていた。今はこんなに憤っているオレグだって、きっともう一晩寝たらきれいさっぱり彼女のことは頭から消えて、いつもの快活で優しいオレグに戻るはずだ。

 ドミトリーはまた、死んだのが見知らぬ彼女で良かったと思う。オレグや、他の友達でなくて本当に良かった。仲良くなり始めのコーリャたちが巻き込まれなくて良かった。殺されたのがロシア人じゃなくて良かったと、国を愛する心が安堵した。


 ウクライナ人だから殺されたのだろうかと、コーリャは考えた。彼女が狙われたのは、ウクライナ人だったからなのだろうか。どんな理由で、犯人はタチアナを殺したくなったんだろう。彼は__彼女かもしれない__彼らかも__僕や、マリヤや、アリーやベグを見つけたら、そら次の獲物だと追いかけてくるのだろうか?

 分からない。タチアナのことも、犯人のことも、コーリャは何も知らないのだ。ただ、シロンに激怒したオレグの気持ちは今になって理解できる気がした。ひどい目に遭った子がいると聞いたら、無関係ではいられない。そんな気持ちで、僕たちはアリーやベグをも引き込んで集まったはずなのに。こんなに胸が痛くて、娘の遺体を見た彼女の親の反応を想像するだけで号泣してしまいそうになるのに、知らんぷりをしようとしているんだ。

 僕らはどこへ向かおうとしているんだろう。今さらになって、それが分からないのが怖くなる。傷を抱えた子どもばかりで身を寄せ合って、刹那的に楽しく過ごすだけ?


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