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第2章 2 養子

 アカトフの家にはピアノがある。妻の趣味だ。その横にはソファがあり、テレビもある。居間を飾る家具はそれで終わりのはずだった。

 今、ソファの上には真新しい玩具の箱が置いてあった。女の人形だ。日本製だということだけアカトフは知っている。なよなよした顔で好きにはなれない。

「おいで」

 妻は台所に向かって呼びかけた。そして、いそいそとアカトフを残して歩いて行く。

 戻ってきた妻が連れてきたのは、小さな女の子だった。

 まだ二歳かそこらだ。青い目に金髪、上等な緑のワンピースを着て、頭には大きなリボンをつけている。妻がそいつの手をしっかりと握っている。

 そいつは、途方にくれたような表情でアカトフを見上げた。妻が優しく話しかけた。

「この人が、新しいお父さんよ」

 まず感じたのは、激しい怒りだった。

「どういうことだ」

 低い声でアカトフは妻をなじる。「いつ、そんな子どもを作った?」

「やだ、そんなのじゃないわ。この子は養子なのよ。つい先月、政府から貰ったの」

「政府から?」

 幼女はきょとんとしている。

「ああ、そうだった。この子、まだロシア語が分からないの。これからしっかり教えていかなきゃね。ねえ、ジナイーダ?」

 幼女はあどけない声で、「あたし、ハーニャ」と答えた。

「やあねえ、これからはジナイーダなのよ。折角素敵な名前をつけてあげたんだから覚えてちょうだいね。ジ・ナ・イー・ダ」

 ジナイーダの短い言葉の中には、訛りが潜んでいた。それがアカトフの記憶の不愉快な部分を瞬時に掘り起こした。

「まさか、ウクライナの子じゃないだろうな?」

 妻が手を叩いた。

「当たり! よく分かったわね。この子、あのウクライナから助け出されてきたの」

 アカトフは咄嗟に足を強く踏み鳴らした。妻の笑みが消える。ジナイーダとやらが怯えて身を縮めた。それがやけにかんに障る。

「ちょっと……」

 妻の声に険が入った。

「ウクライナから連れてきただと? そんなガキ、見たくもない。送り返せ」

「嫌よ。折角のチャンスなのよ。子どもなんて一生できないと思っていたんだもの」

「それは、お前が俺を拒むからだろうが!」

 アカトフは怒鳴り、人形の箱をピアノに投げつけた。激しい音にまたジナイーダがびくりとした。

「その気になりゃ、子どもなんて何ぼでも作れるんだ……こっちはな。俺とセックスするのが嫌で、ウクライナのガキを買ったってか」

「今、そんな話は聞きたくないわ」

 妻が腕を組んだ。頭でっかちが始まった。レスの件で言い争いになるといつもこうだ。無理に押し倒そうとすると、レイプで捕まった犯罪者の末路を滔々と訴えるので、アカトフは尻込みしてしまう。

「とにかく、良いことずくめなのよ。この子を養子にしたら、政府からお金が貰えるの。痛い思いをして産んだり、おむつを替えてやる必要もないし。それに、見て!」

 妻はジナイーダを人形のように抱き上げ、アカトフの眼前に突き出した。

「すごく可愛いでしょう。施設の受付で一目惚れしちゃったの。こんな可愛い子がウクライナにいたなんて、思いもしなかったわ」

 アカトフは、宙ぶらりんの状態でもがくジナイーダを押し戻した。

「分かった、分かった。だがまず飯を食わせてくれ」

「ええ。食べ終わったら、養子縁組の書類にサインしてちょうだい。こういう手続きは早く済ませておかないと……万が一、実の親が取り返しに来たら困るでしょう。ま、もうとっくに死んでると思うけど」

 妻はべらべらと話し続けながら台所に向かう。居間にはアカトフと、ジナイーダが取り残された。

 硬い表情の幼女を見下ろしながら思う。こいつを本当に娘にするのか? ウクライナ人の、このガキを? 整った顔つきも何となくいけ好かなく見えてきた。妻は顔の造作の良さに夢中になっているようだが。

 問題は、こいつを見る度にあの忌まわしい戦争を思い出すことだ。敵兵どもにゴミをみるような目で断罪された耐え難い屈辱を。母国に帰れば何もかも忘れて日常に戻ると思っていたのに。

 込み上げてきた苛立ちに任せ、アカトフはジナイーダの細い首を片手で掴んだ。そのままじわじわと力を込めれば、ジナイーダはきゅうきゅうと獣のような悲鳴を絞り出す。

「あなた?」

 妻が呼んだ。アカトフは慌てて首から手を離し、ジナイーダの頭に手を乗せた。

「何をやっているの?」

 顔を出した妻に、作り物の笑顔を向ける。

「この子を可愛がっていたのさ」

 妻はジナイーダの顔に目を写した。今にも泣き出しそうなほど醜く歪んでいる。目を細め、妻は一瞬の間を置いてうなずいた。

「あらそう。ジナイーダ、よかったわね。優しいお父さんで」

 そして鼻歌を歌いながら食事の支度に戻った。

 妻が自分の承諾なしに話を進めたこと、養子がよりによってウクライナ人であること、全てが気に食わない。だが、一つ分かったことがある。こいつをあてがっておけば妻の機嫌はよくなるだろう。

「おまけに、金も貰えるってか……」

 アカトフはジナイーダを真正面から覗き込んだ。微かに快感が体内でうねった。まだ早い、と自分を抑制する。

「俺たちの娘になるってんなら、それなりのご奉仕はしてもらわないとな」

 口からこぼれた笑いにジナイーダが後ずさろうとした。しかしアカトフは許さない。同じ家に置くのなら、徹底的に躾けなければ。将来牙をむくことのないように。

 ハーニャ改めジナイーダがこうしてアカトフの家に引き取られた頃、他の子どもたちはどうしているだろうか?


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