第2章 1 帰還
アカトフというモスクワの男が、自分の家にようやく帰ってこられたのは、冬も盛りの頃だった。帰国してしばらくは面倒な手続きが続いた。担当の役人はアカトフのような国の英雄(と、彼は自負している)に冷淡で、手に入ったのもわずかな報奨金ばかりだった。
不愉快な日々だった。アカトフは戦地での経験を苦々しく思い返す。自分の身の安全しか考えていない上官。すぐに足りなくなる弾薬。そして何といっても、こっちが撃つまで止まっていてくれない敵の兵士たち。
話が違う。アカトフは何度もそう叫びたかった。聞いていた話では、ゲームのように丸腰の標的を百人も二百人も撃ちまくるだけで大金がもらえるはずだったのに。抗議する間もなく、アカトフは泥沼のような長期戦に引きずり込まれ、必死にもがいた結果、とうとう捕虜になってしまった。
収容所代わりの廃墟でもひどい扱いを受けた。優位にたった敵兵はアカトフを人殺しか何かのように罵った。アカトフが戦場で何をしたか、脅したりなだめすかしたりして根掘り葉掘り聞き出そうとした。殺人、強姦、強盗……告げられた罪状のどれもが身に覚えのないものだ。アカトフが殺したのは、人は人でもロシア人より数段下の劣等民族だ。犯した女は皆喜んでいた。扉をぶち破った人家の中でアカトフを待ち望んでおり、抵抗すらしなかった。臆病な住人が放棄した廃墟の金品など、どうせ誰も使わないのだから、自分が持ち出しても一向に差し支えないではないか?
アカトフの主張がようやく聞き入れられたのは何ヵ月も後だった。その間、いつウクライナの野蛮人どもに銃殺されるかと気が気でなかったが、食事が運ばれてくるたびに彼は強気に振る舞った。ウクライナの兵士の足下に唾を吐き、訛りの強い歪なロシア語を嘲った。みっともない命乞いなどしてたまるか。開き直ってからは彼らの困惑が小気味よく思えた。
糞みたいな国だったが__家路に積もる雪を踏みしめながらアカトフはほくそ笑む。女の味だけは極上だった。どんな女でも選び放題という戦友の話は嘘ではなかった。何しろ、銃でちょっと頭を叩いてやればすぐに大人しくなる。(家に残してきた妻が相手だとなかなかそうはいかない。)好きなだけ犯すのに飽きたらその辺に棄てて、また気分が盛り上がってくれば次の女を見つければいい。
アカトフは写真を撮るのが好きだ。カメラを首から下げて戦う訳にはいかないが、ポケットに忍ばせた携帯で、気に入った女の顔を写すのだ。敵兵に捕まった時に携帯は没収されてしまったが、とりわけ好みの女の顔は今でもはっきりと覚えている。何度も何度も見返したからだ。
美しい顔と見事な体つきの女だった。本当なら、ロシアに連れて帰り、妻の代わりに家に置いておきたいくらいだ。すっきりとした眉毛や女優のように整った顔だちといい、柔らかい濃茶色の長い髪といい、すっかり古くなった生意気な妻とは全く違う。
いつか、ドンバスをまた訪れることがあれば__名前さえ知らない女を想い、アカトフは足を進める。
妻はアカトフが戻ってくることを知っているはずだ。政府から家族に連絡が行くと聞いている。十ヶ月も会っていないとなると、古女房でも懐かしさが湧いた。
妻は大学まで出た頭の良い女である。アカトフが兵役に出かけている間も教師として働いているはずなので、生活の心配をしてやる必要もない。頭でっかちなだけではなく、家事もきちんとこなすところをアカトフは気に入っている。
ただ一つだけ、どうしようもない欠点が彼女にはあった。
我が家の外観はちっとも変わっていない。雪の白に映える赤い屋根に、クリーム色の壁。車庫には愛車のクロス・セダンが収まっている。アカトフが借金をしてまで買った車だが、留守中に妻が乗り倒しているらしい。
ベルを鳴らさずにドアを押す。鍵はかかっていなかった。開けた途端、酸味の強い独特の香りが鼻をくすぐった。
ボルシチだ。温かい家庭料理などいつぶりだろう。帰ってきたのだという感慨が早くも湧いた。そして次に目に止まったのは、電飾を幾重にも巻きつけたクリスマスツリーだった。
アカトフは行事に熱心な方ではない。大人二人でツリーを飾って、何が楽しい? 妻もそうした夫の意見を汲んで、また彼女自身も合理的な性格であるためか、殊更に家を彩ることもなかった。それが今、一目でそれと分かるクリスマス仕様である。
声をかけると、家の奥から返事が来た。アカトフは玄関で待った。感動の再会は玄関でするものだ。
ぱたぱたと足音がして、居間へと続く扉が開く。
「お帰りなさい!」
妻はアカトフに満面の笑みを向けた。ほんの一瞬、結婚したての頃に戻った気がした。
「ああ、ただいま」
妻がエプロン姿のままアカトフに抱きついた。雪がつくのも構わずに、アカトフのコートの胸元に鼻をこすりつける。アカトフの胸の中で期待が膨らんだ。
「無事で本当によかった……」
「お前こそ、」
アカトフは乱雑な手つきで妻の頭を撫でた。
「変わりはないようだな」
「あら、そう見える?」
妻は顔を上げる。いたずらっぽい表情は驚くほど可愛らしかった。
「どう、何か気がつくことはない?」
「きれいになった?」
「そういうことじゃなくて」
アカトフは玄関を見回し、ゆっくり答えた。
「クリスマスツリーがあるな」
「そうよ。どうしてだと思う?」
アカトフの腕を優しく掴み、妻は居間へと誘う。アカトフは慌ててブーツを脱いで室内履きに履き替えた。彼の冬用の靴はちゃんと用意されていた。
ふと、靴箱の周りに目がいった。妻のブーツや運動用シューズの脇に、ひっそりと見慣れない履物がある。
明らかに子どものサイズである。
何かを問う前に、妻に背中を押されてアカトフは居間に入った。