第9章 3 アパートの夜
「三人とも、ここに泊まるんでいいの?」
シロンはアリアズナとコーリャを見比べて言った。
「お願いします」
頭を下げるアリアズナ。やっと、帽子とマスクを取っていた。
「大したもてなしはできないけど」
「いいんだよ、そんなの。ただ寝る場所があるだけで助かるんだから」
マリヤが言った。
「お礼に、食事は全部あたしらが作るよ。あんたは宿題でもしてな」
「学校……行ってないから」
シロンはよそよそしく返した。二人の間に漂う険悪な空気にアリアズナも気がついた。コーリャとアリアズナがはらはらと見守る中で、マリヤが先に口を開いた。
「じゃ、何か好きなことをしてりゃいい。リクエストある?」
「別に、何も」
「じゃ、コーリャの得意なボルシチでいいね。食材は? なけりゃ買ってくるよ。店の場所を教えて」
ぽんぽんと話を進めていくマリヤは、最後にシロンをじろりと見た。
「悪いね、初対面なのに巻き込んで」
「……いいけど。食材って言っても、お金はないよ」
「あたしにはある」
盗んだ紙幣で膨らんだ財布をちょっと振ってみせ、マリヤは立ち上がった。コーリャがその後を追いかける。
「僕も行くよっ」
玄関で靴を履くマリヤに囁くと、彼女は首を振る。
「シロンの相手をしてやりなよ。友達なんだろ」
「でも、一人じゃ危ないよ」
「あたしをその辺の女の子と一緒にするな」
マリヤは拳を固めて笑った。
「あいつは泊めてくれるって言ったけど、やっぱり迷惑に思っているんだと思うよ。あたしへのあの態度、見ただろ。でも今はあいつに頼るしかない。追い出されないように、せめてあんたは仲良くしてあげて」
「シロンはそんな子じゃないと思うけど……」
「それより、料理当番はあんただからね。ボルシチの作り方、忘れてない?」
「忘れてないよ! そっちこそ、ビーツと間違えてトマト買ってくるなよ」
「ばーか、あたしがそんなミスをするか」
マリヤはさっさと外に出て行った。コーリャが居間に戻ると、アリアズナとシロンが和やかに会話していた。
帰ってきたマリヤは、リュックに詰まった野菜や肉を台所で開けながら、眉をひそめてコーリャに囁いた。
「ごろつきみたいなガキどもが、あたしを見張ってた」
「アリーに石投げた奴かな?」
「あいつじゃない。どっかの学校の制服を着ていたけど、顔見りゃ芯から腐った根性なのが分かる。このアパートの周りをうろついて、あたしにちょっかい出そうとした。ぶん殴ってやる前に逃げやがったのが残念だ」
「血の気が多いんだから、もう」
食材の山を選りわけながらコーリャは笑った。
コーリャの料理は皆に好評だった。テーブル代わりの床に敷いたマットに皿と鍋を置き、四人で囲んで食べると不思議な気分になった。山賊の酒盛りみたいな絵だ。マリヤとシロンは何杯もおかわりをした。アリアズナはゆっくり一杯を味わって食べていた。
「金を稼ぐと言ってたけど、どうやって?」
シロンがコーリャに尋ねた。コーリャはマリヤを見る。マリヤが答えた。
「日雇いのバイトってところかな」
「住所はどうするの?」
「あんたの家を使わせてもらいたいんだけど……大丈夫、変な仕事には手を出さないよ」
コーリャの疑うような視線を避けてマリヤは言った。
「少し離れたところに、バイトの斡旋所があるよ」
まだマリヤとは目を合わせないまま、シロンが教えてくれた。
コーリャには一つ、気がかりなことがある。
「今更だけど、お母さんに怒られないかな」
「大丈夫だから」
シロンがさっと言い返した。コーリャがそれでも微妙な顔をしていると、アリアズナがシロンの代わりに言った。
「シロンのお母さんは、家を出て行ったのよ」
「何だって?」
マリヤとコーリャが大声を出した。
「あの……一緒に、マリウポリに来てたお母さんが!」
「……そうだよ」
シロンは肩をすくめた。
「何で!」
シロンの代わりにアリアズナが答える。いつの間にかすっかりシロンと仲が良くなったらしい。
「お母さんには、彼氏がいたんですって。その人も、この町から消えたらしいの」
「駆け落ちかよ」
マリヤが顔をしかめた。
「無責任な親だな」
「別に……気にしてないから」
「気にするべきだろ。あんた、まだ十三、四ってとこだろ? 生活費はどうする? 学校は?」
「……それを、今から考えようとしてたところ」
母親が戻ってこなくなったのは、ほんの三日ほど前だと言う。
「馬鹿だね、何を悠長にしてるんだ。今すぐ役所に行け。金でも保護でもしてもらえ」
「嫌だよ」
「何で?」
マリヤがシロンを問い詰める。
「今、使える金はどれぐらいある?」
「一ヶ月分の食費くらいは」
「必要なのは食費だけじゃないだろ。家賃は? 電気、ガス、水道は? 学費だってかかるはずだ。あと、」
「……もういいよ」
シロンはうつむいてしまった。アリアズナがマリヤとシロンの間でうろたえている。マリヤは更に言い募ろうとしたが、シロンが先に暗い声で言った。
「もう寝よう。電気代の無駄だから……」
マリヤは不満も露わにしながら、不承不承うなずいた。皿を片付ける間、マリヤはむっつりと考え込んでいる。シロンもあれっきりだんまりだ。コーリャとアリアズナがその場を和ませようと下らない冗談を言って失敗した。
消灯しても、シロンは眠れなかった。同級生によく似た顔のマリヤがきつく責める言葉がシロンを苦しめる。馬鹿だの悠長だのと、シロンばかりに責任があるような言い方をして。彼女と四六時中顔を合わせるかと思うとぞっとする。
不意に、寝転がっているシロンの首筋に誰かが触れた。ひやっとして振り向くと、月明かりで上体を起こしたマリヤが浮かび上がった。
「驚かせたか、ごめん」
囁く彼女は、悪魔のように不気味だった。
「……何?」
「あんたに謝りたくて。ひどい言い方で困らせただろ。ごめんなさい」
マリヤは謝ってばかりだ。そこが同級生とは違う。ぼんやりと見える彼女の凛々しい顔は、後ろめたさにこわばっている。
「……あたし、いつもこうなんだ。今日だって、コーリャにも嫌なこと言った。それで、夜気になって眠れない」
シロンはそっとシーツから抜け出した。このまましゃべっていると、コーリャたちを起こしてしまうかもしれない。
「廊下に行こうか」
提案すると、マリヤも素直に従った。
玄関の前に並んで腰を下ろしたが、マリヤも話し出そうとはしなかった。
「僕は、あなたにそっくりな子を知ってる」
マリヤは片手で自分の顔に触れた。
「顔?」
「そう。顔。大嫌いないじめっ子の一人だよ。だから、あなたのことも怖かった」
「そうか」
マリヤは怒りも笑いもしなかった。
「あたしも決して品行方正じゃないから……そいつと一緒にするなと言う資格はないよね」
「でも、多分あいつとあなたは全然違う……と思う」
マリヤをまだ直視できないまま、シロンは呟くように言った。
「多分、だけど。あいつは、あなたみたいに僕に謝ったりは決してしないから。きっとあなたの方がいい人だと思う」
「そうか。嬉しいね」
褒めてくれて、と小さく付け足す。
「コーリャに聞いたか? あたしらがモスクワに来た理由」
「ううん。コーリャもよく分かってなかったよ」
「そう。あたしが何も言わないからな」
「あなたがコーリャを連れてきたの? 何のために?」
マリヤはしばらく迷っていたが、根気よくシロンが待っていると、やがて立ち上がり居間に戻って行った。
再び姿を見せた時、右手に一枚の横封筒を持っていた。
「読んでみな」
封筒を開け、中に入っていた便せんをわずかな明かりに照らして読んだ。
「……何、これ」
「おっそろしいだろ」
マリヤは乾いた笑い声を上げた。
「コーリャ宛に届いたんだよ。同じようなのが何通も。きっと今も、コーリャの家に送られてる。送り主の狂気を感じるね」
シロンは封筒をひっくり返し、裏を読んだ。
「まさか、送り主を探す気じゃないだろうね」
「当たり。だけど、まだコーリャには内緒だよ。何て説明したらいいかまだ分かんないから」
「僕だって分からないけどさ」
シロンは年上の少女を睨んだ。
「危険だと思わない? 遠くから顔を見るだけじゃ済まないんだろ」
「でも、気にならないか? あたしは気になる」
マリヤは手紙をシロンから取り上げた。
「ろくでもない悪意がコーリャに手を伸ばそうとしているのなら、早めに断ち切った方がいい。あたしはそう思う。いつかあの子が一人で手紙を読んでしまうよりもね」
シロンは何も言わなかった。
「この住所、どこか分かる?」
「モスクワ市内だね。金持ちばっかり住んでる場所だった気がする」
「あたしもあんたも縁がないね」
でも、これからそこに乗り込もうとしているんじゃないか。何も知らないコーリャを連れて。
「もう一度読ませて」
マリヤは黙って手紙を渡した。何度もその美しい手書きの筆記体を読み返しながら、シロンは静かな居間に時折目を向けた。
「じゃあ、アリーは……?」
「ああ、あの子はたまたま出会っただけ。性格の悪いおっさんにいじめられてたから」
「あなたはお節介だね」
シロンはしみじみと言った。だが、不思議と気分はそう重くはなかった。




