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第9章 2 シロン

「マリヤと、アリーだよ。どっちも僕の友達なんだ。マリヤと一緒にモスクワに来て、赤の広場でアリーに出会ったんだ」

「よろしく」

 マリヤはシロンに右手を差し出した。

「こんな何人もで押しかけてごめんね、シロン。あんたの話はコーリャから聞いてる」

 シロンの顔が曇った。彼は彼女の手を握ろうともしない。それどころか、今にも逃げ出したそうに後ずさりした。

「そう……どんな風に?」

「コーリャが辛い時、随分支えてくれたって。それ聞いて、あんたにすごく感謝してるんだ。あんたがいなかったら、あたしもコーリャと出会うことはなかったかもしれない」

「マリヤったら……」

 コーリャは照れた。マリヤはそれに取り合わず、シロンに一歩近づいて微笑んだ。

「もし良かったら、あたしもあんたの友達にしてくれる?」

 シロンは承諾しない。困ったように彼女から目を逸らし、もじもじしている。マリヤが怒り出すのではないかとコーリャはひやひやした。だが彼女は気にする様子もなく、隠れていたアリアズナを突き出した。

「それで、この子がアリーだよ。モスクワに住んでる」

 アリアズナはシロンと同じくらいはずかしがっている。いや……彼女の場合は、素性を知られることを恐れているのだろう。シロンも何かしらの形で彼女の動画に触れているはずだから。それでも、サングラスだけは外し、素の瞳で彼女はシロンと向き合った。

 予想に反して、シロンは今度は薄く微笑んだ。

「初めまして。……コーリャ。僕、一度にこんな沢山の女の子としゃべったことないんだけど」

「あは、緊張する?」

「そりゃね」

 強い風が吹き、アパートが揺れた。薄着のシロンがくしゃみした。

「な、中に入る?」

 コーリャたちは勿論同意した。

 家の中はきちんと片付いていた。狭い廊下の奥に小さな台所スペース、トイレと思しき小部屋の他、部屋は一つしかない。埃一つ落ちていない部屋の中に見えるのは折り畳まれたベッドと古びたリュックサック、それに2、3冊のペーパーバックだけだった。テレビも本棚もない。衣服はぴったり閉じたクローゼットの中に全てしまってあるらしかった。

 寒い。壁をぐるりと見渡しても、エアコンはない。床に何も敷かず座り込んだ家主に倣って適当な場所に腰を下ろしたコーリャたちも、上着は脱ごうとしなかった。

「狭くてごめんね」

 シロンが心底申し訳なさそうに謝った。4人集まると確かに部屋は少し詰まって見える。

 早々にリュックサックを下ろし横座りしたマリヤが、首を振った。

「あたしのイルクーツクの家も、こんな感じだった。でもここの方が片付いているし、清潔だ」

「イルクーツクに………いたの?」

 シロンが恐る恐る尋ねた。

「そうだよ。3歳から15歳まで住んでた」

 シロンはちょっと首を傾げたが、何も言わない。マリヤの代わりにコーリャが補足する。「マリヤは、戦争の時にロシアに連れてこられたんだよ」

「……そうなんだ」

 気まずい沈黙が流れた。断ち切るためにシロンが立ち上がる。

「お、お茶でも淹れようか。待ってて」

「あ、僕も手伝う」

 部屋を出て、シロンはコンロに点火する。小さなやかんに水を入れて、火にかけた。慣れた手つきだが、のろのろと遅い。

「ごめんね」

 コーリャが謝った。さっきから誰かしらの「ごめん」ばかり聞いている。

「連絡もしないで、急に押しかけて」

「ううん。コーリャに会えて嬉しかった。それに、うちには電話もメールもないし」

 戸棚からティーバッグを取り出し、湯が沸騰するまで二人で佇んだ。


 2人とも、互いの胸のうちが気になって仕方がない。シロンは、母を亡くしたシロンのその後を知りたかったし、コーリャも心中しようとしていたシロンが心配だった。だが、せっかく2人きりになったのに、どちらも自分からは聞こうとしない。


 それは、今のところどちらも(少なくとも五体満足で)生きているという安心であり、知り合ってからの時間の浅さから来る遠慮でもあった。時間はたっぷりある。焦って根掘り葉掘り聞き出すことはないとコーリャは楽観視していたし、シロンはマリヤで頭がいっぱいだった。


 シロンが通っていた学校に、マリヤそっくりの女の子がいた。社交的で、気が強く、裕福だった。そして、シロンのことは友人たちの玩具としか見ていなかった。


 直接彼女に危害を加えられたことはない。だが、シロンをいじめる現場を彼女はいつも見物していた。携帯で動画を撮っていることも多かった。シロンのあずかり知らぬ所で屈辱的な動画が出回っているのかもしれないと想像しただけで息が苦しくなる。だから、学校の授業でも図書館でも、シロンは一度もインターネットを開いたことがなかった。母も携帯を持っていなかったから、息子がピエロの扮装をして校長室に突撃させられたり、泥を食べさせられているところなど見たことがなかったはずだった。


 マリヤの顔を見ると、動悸が激しくなる。彼女が自分の家にいるだけで、恥ずかしくて冷や汗が止まらない。今も、居間から聞こえてくる彼女の声に耳をそばだてている。自分の悪口を言っているんじゃないかと。

「__頼りにできるのが、シロンしかいないんだ」

 コーリャがぽつんと呟いた。

「え? どうして?」

「モスクワまで来たはいいけど、連れてきてくれた大人とはぐれちゃったんだ。帰国のお金を稼ぐまで、僕たちを泊めてくれないかな……? 出来るだけ邪魔にならないようにするからさ。あ、勿論、シロンのお母さんにも許可を貰わないといけないんだけど……」

 コーリャが不安げに玄関を振り向いた。

「その心配はないよ」

 シロンはそう言ってやった。玄関に並んだ靴は四人分しかない。シロンの靴は一足きりだし(頑丈で、冬でも使えるんだよ)、靴箱なんて贅沢な家具はない。

 コーリャは、家の中が片付き過ぎていることに気がついたようだった。

「シロン……?」

 何か聞かれる前に、シロンは別のことを聞き返した。

「あのマリヤって子も?」

「あ、うん。あと、アリーはモスクワの子だけど、しばらく家に帰りたくないらしくて……」

 沸騰したやかんが泣きだした。火を弱め、シロンはティーバッグを放り込んだ。

「こんな狭い家でよければ、いくらでも泊まっていいよ。……でも、あのマリヤは……」

「マリヤはいい人だよ」

 コーリャは語気を強めて言った。

「僕の大事な友達だ。その……見かけほど怖くないよ」

 すりが特技であることは黙っておいた。シロンは浮かない顔で頷いた。

「それにしても、コーリャはどうしてモスクワに来たの」

 シロンに会いたかったから、という返事を実は密かに期待していた。だが、コーリャは困ったように笑う。

「それが、僕にもよく分かんないんだ」

 お茶をコップやお椀に入れて居間に持っていく。マリヤとアリアズナがふざけ合っていた。アリアズナの顔が大分緩んでいることにコーリャは安堵した。

「お待たせ」

 コーリャたちが入っていくと、女子たちがぱっとそっちを見た。

「ありがとう」

 笑いかけてくるマリヤに、シロンはやっぱり応えることができない。

 お茶をすすり、マリヤが呟く。

「やっぱり、温かい飲み物っていいね」

 アリアズナも同意する。


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