第9章 1 友達の家へ
3人の中でモスクワの地名に一番明るいのはアリアズナであるが、訪れたことのない町の当たりをつけるのは当然難しい。それでも「なんかこの辺な気がする」と記憶の中の似た地名を辿って地下鉄に乗り、駅の地図はロシア語が不得手なコーリャの代わりにマリヤとアリアズナが読んで何とかメモの住所を探り出した。初めての街であっても方向感覚はマリヤが抜群に良く、さほど2人を連れ回すことなく質素なアパートに辿り着いた。
「多分、ここだと思うけど」
マリヤは住所が書かれたメモを何度も読み返しながら、そう言った。
寂しい印象を受けるアパートだ。エントランスはなく、それぞれの玄関が剥き出しである。二階建てで、青いトタンの屋根は端が腐蝕でぼろぼろに欠けている。外階段は風雪に晒されて今にも崩れ落ちそうだ。金属製のドアは両階合わせて八つだ。
アリアズナは首を傾げて目をこすった。コーリャの友達が住んでいると聞いたから、何となく高級マンションか一軒家にいるのだと思い込んでいたのだ。
アパートの前に、ガラス瓶や壊れた家電んなど、燃えないゴミがどっさり積み上がっていた。斜めになった瓶の口から、何とも知れない液体が滴り落ちた。アリアズナは不安げにコーリャを見たが、何も言わなかった。コーリャはコーリャで、久しぶりに会う友人に何て挨拶しようかと悩んでいた。
「2号室だったね」
何の感慨も抱かないマリヤがあっさりと部屋を特定し、扉を叩こうとした。このアパートには呼び鈴がない。
「ちょっと待って!」
コーリャはマリヤを止めて、深呼吸した。
「友達……シロンは、僕のこと覚えてるかな?」
「今さら何言ってるんだよ」とマリヤが呆れた。
「だって……シロンに会ったのは3ヶ月も前なんだよ」
「3ヶ月はあんたが思っているより短いよ」
「それに……あんまり楽しい思い出でも……」
「へえ。どんな?」
「シロンが自殺しようとしてたり、僕の母さんの死体を見つけたり」
アリアズナが悲鳴を上げた。マリヤも顔をしかめ、無言でコーリャを見つめた。
「ご、ごめん」
「……だったら、尚更あんたのことは忘れられないだろう」
マリヤは2号室の扉に立ち、まだ躊躇うコーリャに笑いかけた。
「あんたと同じくらい、その子もあんたを気にかけてるはずだよ」
薄い扉を叩くと、硬く冷たい音がした。
しばらく返事がない。留守だねこりゃとマリヤが諦めかけた時、扉の向こうで足音がした。
来た! コーリャの顔は緊張で白い。シロンと初対面のマリヤは、コーリャを前に押し出した。アリアズナは彼女の後ろから、恐る恐る成り行きを見守っている。
扉が外側に開くと同時に、軋んだ音がした。コーリャは唾を飲んだ。もし、全然違う人の家だったらどうしよう。そんな不安が一瞬の内に心をよぎった。
細く開いた扉の隙間から覗いているのは、きょろきょろ動く黒い瞳だった。家の前にいるのが子どもばかりなことに驚き、それからその中の一人がコーリャであることに気づいてぱっと扉を大きく開いた。
「コーリャ!」
彼は家で寝間着姿だったらしい。だらしなくゴムが伸びきったスエットの上に辛うじて羽織ったカーディガン。灰色ですぐには分からないが女物だ。コーリャは迷いなく彼を抱きしめた。
「シロン……ごめんね、いきなり来ちゃった」
「ううん、いいんだ……いいんだ」
シロンは鼻をすすり上げた。
「コーリャが無事で良かった……ほんとに」
「無事に決まってるよぉ」
「ロシアに遊びに来たの? 一人で? ……」
シロンはそこでやっと、コーリャの後ろで待っている女子たちに気がついた。髪を短く刈り詰めた鋭い目つきの少女と、彼女にしがみつくごてごてと着膨れした下がり眉の少女。柔和なシロンの顔立ちが驚きで大きく広がった。
「……コーリャ?」
コーリャは思わずにやっと笑った。それでシロンは勘違いしたらしい。
「ハーレム?」
「違うよ!」
慌ててコーリャは自分を睨みつけるマリヤとアリアズナを紹介した。




