第8章 7 カフェ
鋭い叫び声が上がり、コーリャは腰を浮かせた。見るとマリヤが背の高い男に手首を掴まれていた。コーリャは慌てて駆け寄った。
「大丈夫……」
マリヤは必死に手をふりほどこうとするが、男が決して離さない。眼鏡をかけた茶髪の男だ。マリヤをきつい目で睨み、そのまま彼女を引きずって行こうとする。
コーリャは咄嗟に男に抱きついた。驚いて男の手が緩む。マリヤは素早く離れたが、男は今度はコーリャを捕まえた。
「この、泥棒が!」
マリヤがコーリャに加勢しようと近づいた。コーリャは叫ぶ。
「来なくていい! 逃げて!」
その時、男がぎょっとして呟く。
「ウクライナ語か……?」
しまった! 不法入国までばれたら一巻の終わりだ。男はコーリャを見下ろし、何事か考えているようだった。男を蹴飛ばそうと飛びかかったマリヤを軽くかわし、男はコーリャに言った。
「君たちは何だ? まさか……?」
男はコーリャの両手を鋼のような力で握ったまま、ゆっくりと人混みを抜けた。マリヤが距離を保ったままついてくる。
「あれは君の恋人かな?」
「違うよ」
おや……男が話しているのもウクライナ語だ。ロシア語とは少し違う独特の発音。コーリャは瞬きする。
男がコーリャを連れて向かったのは、コーリャたちが先程その裏で会話をしたカフェだった。正面から見るとレンガの壁と飾ってあるぬいぐるみが目立つのに、客入りは少ないらしい。すぐ隣に世界チェーンのカフェがあるせいかもしれない。
まだコーリャを押さえたままカフェに入ろうとして、男は後ろを振り向いた。マリヤが狩りの最中の猫のように様子を窺っている。
「君もおいで。この子が心配だろ」
男が大声で呼びかけると、マリヤは渋々うなずいた。
4人用のテーブルに通され、コーリャとマリヤが並んで、男はその正面に座った。男が早速メニューを広げる。
「何でも頼んでいいよ。飲み物でも、食事でも」
子どもたちは目配せをした。その優しさが気持ち悪い。ましてや、コーリャたちはすりの現行犯なのだ。
大人の好意は信用してはいけない。社長が教えてくれた教訓だった。
「私はココアだな」
先に選んだ男がメニューを2人に寄越した。思わず覗き込むが、コーリャには書いてある言葉の半分程度しか分からない。
「ね、これは何て書いてある?」
マリヤが小声で教えてくれた。
「これはトマトとチーズのパスタ。こっちはミルクティー。それでこの写真付きのデザートは、三種のソースを添えたクリームケーキだよ」
男が興味深げにコーリャを見た。
「君は字が読めないのか?」
むっとしてマリヤが目を尖らせる。彼女が代わりに腹を立ててくれたから、コーリャは穏やかに答えた。
「ロシア語の読み書きはできないんです」
「話せはする?」
「はい」
「そうか」
男はソファ型の背もたれに深く身を預け、大きく息を吐いた。正面からじっくりと見ると、彼の目元には小皺が刻まれているし、とび色の髪の毛には白髪がかなり混じっている。顔だちはまだ若々しく見えるけど、四十は越えているのだろう。銀の細いフレームの眼鏡を軽く持ち上げると、鼻の上部に赤い跡が見えた。
「で、何を頼む?」
「あ、じゃあ……ミルクセーキで」
「あたしはコーヒー」
ちらっと男が微笑んだ。
「趣味が大人だね」
マリヤは警戒を解かない。
「どうも」
「今日だけで、いくら手に入れたの?」
マリヤは沈黙を保っている。コーリャもうつむいて男の顔を見ない。
「君はかなり慣れているようだね。自分がやっていることが犯罪だと分かっているんだろう?」
マリヤは答えない。恥じ入っているわけでもない。ただ、男が次に何を言い出すのか待っている。何を要求されるのか。金か、謝罪か。
バイトしていた菓子屋でもそうだったな……と思い出す。コーリャが見ている間、彼女は一度も反省の素振りを見せなかった。家族に叱られた時も、今みたいに沈黙を貫いたのだろうか。
僕はマリヤのようにはなれない。危険を冒す度胸も、罪の意識に蓋をするしたたかさもない。それで良いんだと思っている。だけど、マリヤが根っからの性悪だとも思わない。
マリヤとコーリャの生まれ素性が逆だったら、彼女も今とは違った性格に育っていたかもしれない。だって、すりや万引きが得意なマリヤを育てたのは、戦場で盗みを働いた養父に違いないのだろうから。
男が、不意に優しい口調で尋ねた。




