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第8章 4 モスクワ

 国境を越える経験は、コーリャにとっては初めてだ。景色がぐんと変わるでもない。次々に通り過ぎる看板が読めもしない文字になることもない。ただ、故郷を出たという奇妙な感慨がコーリャの心に残るだけだ。


 もう、後戻りはできない__やっと実感した。電源を切った携帯を自宅のポストに落とした時より、知らない町に地下鉄で降りた時よりよっぽど寂しくなった。もう、伯父たちや教師に頼ることはできない。それどころか、周囲の大人は皆敵だと警戒すべきだ__警察も教師も、不法入国した子どもを許す訳はないのだから。


 自分が五体満足でここにいて、マリヤも側にいてくれる。その事実だけでコーリャは自分を無理に勇気づけた。

 翌日の朝、ロシアに入ったというアナウンスがあってから、バスは大型の道路を走り始めたようだった。なだらかな緑の丘陵や遠目に見える基地を乗客はぼんやりと眺めた。途中で立ち寄ったサービスエリアには、どぎついスプレーの落書きが残っている。自動販売機でコーヒーを買おうとしたマリヤが、ルーブルしか使えないことに気がついて舌打ちした。持ってきたフリブニャは、国境を越える前に両替しておくべきだった。

 マリヤがバスに戻ると、あと3時間程度でモスクワだと社長に言われた。少ししてコーリャも戻ってくる。

「よかった、間に合った」

 コーリャがウクライナから持ってきた古い腕時計を見ながら言った。マリヤはバスの時刻表示を見上げる。

「その時計、時間ずらしといた方がいいよ。時差があるから」

「あ、そうだった」

「ほんの1、2時間だろうとは思うけどね」

 腕時計の小さなつまみをせっせといじりながらコーリャが質問する。

「マリヤはモスクワにいたんだっけ。懐かしい?」

「いや。あたしが住んでたのはイルクーツクだよ。モスクワよりずーっと東にある。モスクワなんか行ったこともないね」

「ええ?」

 コーリャが驚いて声を上げた。

「じゃ、何でモスクワに行くの?」

「イルクーツクなんて2人で行けるわけないよ。遠すぎる」

「ふうん……」

 マリヤが旅の目的を上手くはぐらかしたことに、コーリャは気づかないようだった。

 モスクワに到着した所で一騒動勃発した。

「バス代を払えだって?」

 観光バスが多く停車する大きな広場の隅で、マリヤが社長に文句を言う。

「そんなこと、乗る前には言ってなかったのに!」

 彼女の叫びを涼しい顔で聞き流し、社長は乗客から受け取った札を数えている。通路を塞ぐマリヤの後ろで財布を握った女が舌打ちした。マリヤは慌てて席に戻る。

 女は5枚のルーブル札を数えて渡し、黙って降りていった。

「……いくら払えって?」

「通常料金なら、5千ルーブル。払えない者はブタ箱行きだ。何せ不法入国だからな」

 二人は顔を見合わせた。そんな大金を持っているはずがない。

「君たちは子どもだからな。足りなくても許してやろう。有り金全部出せ」

「何故、先に言わなかった? 知ってたら……」

「乗らなかったと言うんだろう。それじゃあ意味がないからね」

 怒りのあまり口をぱくぱくさせるマリヤを、コーリャはそっと押さえた。

「私は君たちをロシアに連れて行くとは言ったが、見返りを求めないとは一言も言わなかったよ」

 マリヤはとうとう黙った。コーリャが囁く。

「どうしよう?」

 マリヤは財布に入っていた紙幣を全て取り出し、叩きつけるように社長に渡した。

「ほら、コーリャも出して」

「いいの?」

「他にどうしようもないだろ」

 ぶっきらぼうに彼女は言ったが、その顔は思いの外明るかった。コーリャは瞬きする。

 5千ルーブル分にはとても届かないフリブニャ札を数え終わり、社長は鷹揚にうなずいた。

「良い子たちだ」

 マリヤがそっぽを向いて顔をしかめる。けっ!

「で、もう自由に動いていいんだな?」

 座り込んだままの社長は上目遣いをした。

「2時間だ」

「は?」

「前に言ったアカトフというお客が、コーリャに会いたがっている。今が十二時で、彼と約束があるのが3時だ。それまでにはバスに戻ってこい」

「アカトフさん……」

 コーリャが曖昧に呟いた。マリヤは、コーリャの口からアカトフ某の話を聞いたことがない。向こうからは気に入られていても、大した仲ではなかったんだろう。

「そいつに会うまでは自由なんだね?」

 念を押し、社長がうなずいたのを確かに確認してからマリヤは動いた。

「行くよ、コーリャ。時間がない」

「うん」

 バスを降りて、コーリャは感嘆の声を漏らした。

 色鮮やかな聖堂に、沢山集まった観光客。黒い髪のアジア人の集団が盛んに喋り交わしながら二人の側を通り過ぎていった。ベンチに座ってぼんやりと聖堂を拝むバブーシュカ。せかせかと歩いていくスーツを着こなした大人の男。

「さすが赤の広場、雑誌で見た通りだ」

 マリヤもしばし茫然と広場を見回していたが、やがて立ち返ってコーリャの頭を叩いた。

「のんびり感心してる時間はないよ。まずは資金調達だ」

「ど、どうやって?」


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