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第8章 3 バスの旅

「あまりきょろきょろするんじゃない」

 マリヤが小声でたしなめる。

「だって、気になるんだもん」

「分かるけど、あいつらろくでなしだよ。刺激しちゃ駄目だ」

「見ただけで分かるの?」

「あたしも同類だからね」

 マリヤは唇を歪めた。いたたまれなくなってコーリャは話を変える。

「マリヤはさ……」

「何?」

「いつ知ったんだっけ? その……僕の父さんが……」

 マリヤはいっそう浮かない顔をした。

「……前に自分で言ってなかった?」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

きちんと整備されていない道に入った。タイヤがしょっちゅう土の盛り上がりやへこみを無理に通り抜け、その度に席がひどく揺れた。

コーリャはマリヤの仏頂面を眺め、言葉を絞り出す。

「じゃあ……あのことも話したっけ。その……父さんと母さんが出会った……というか、僕が生まれたきっかけ、というか」

「いいや、知らないね」

 マリヤはコーリャの張り詰めた顔を一瞥し、窓の外に視線を向けた。

「……あのね、伯父さんが葬式の後に話してくれたんだけど」

「ああ」

「ほら、戦争があったでしょ。その時に父さん、兵士としてロシアからやってきて……」

 あたしの養父と同じだな。そんな思いがマリヤの頭をかすめた。養父も兵士だった。ウクライナの東部の町を占領して、帰ってくる時に家電や貴金属を沢山分捕ってきた。随分家計が助かったと喜ぶ反面、ウクライナの家庭は金持ちらしいと怒っていたっけ。

「それでね、父さんは……避難する母さんを捕まえて……」

 口の中に嫌な味が広がった。

「……うん」

「家主が逃げた後の知らない家に閉じ込めて、レイプしたんだって」

「……そうかい」

 マリヤは長い溜息をつこうとして、やめた。代わりにコーリャの腕をそっとつかみ、優しく揺らした。

 コーリャの目は暗かった。恐らく誰にもまだ話していないであろう秘密を打ち明けたはいいが、その暗い秘密は口にしたコーリャ自身を傷つける劇薬であったらしい。一人で抱えておくのも、誰かに話すのも辛い類いの事実だ。今も腹の底からコーリャの体内に毒をまき散らしている。

「僕は……そのこと知るまで、ロシアにいる父さんに何とか会いたいと思ってた」

「知らなかったんだから、当然だろ」

「その夢、母さんにも言っちゃった」

 マリヤは目を閉じる。コーリャの母親がどう思ったかなんて、考えたくもない。

「……不毛だよ。いつまでも気にするんじゃないよ。あんたは何も悪くないんだからね」

 月並みな慰めを並べ立てても、コーリャの顔はちっとも晴れない。

「伯父さんから真相を聞いて、やっと気づいたんだ。母さんが自殺したのは、」

 僕のせいなんだって。

 違う。違うよ。そう大声で叫び、コーリャの馬鹿な後悔を弾き飛ばしてやりたい。彼の父親とやらを人気のない路地裏に呼び出して、顔が腫れるまでひっぱたきたい。伯父を正面からなじってやりたい。一体__どういうつもりで、無意味にコーリャを苦しめる。妹の復讐か? 真実を知ったコーリャがどう思うか考えもしないで!

 腹を立てたまま、マリヤは言った。

「あんたのせいじゃないよ。そのロシア人が悪いんだ。そんなの、父親とも呼べない」

「でも、確かに僕の父さんだ。血もつながってる」

「だけど、あんたはそいつじゃないし、そいつもあんたじゃないよ。別個の人間だ。そいつの罪を背負うんじゃない」

「母さんは、僕に父さんを見てたよ」

 また怒りが湧いた。

「僕と顔を合わせたくなかったんだ。僕を見ると、父さんを思い出すから。きっと、我慢ができなかったんだよ。……きっと、伯父さんたちも心の底では僕を憎んでる」

 卑怯だな。マリヤはそう感じた。あたしに否定して欲しいから、わざと自虐的に話してる。だけど、それは母親に許してもらえなかったからだ。

 今ここでマリヤがコーリャを許したとして、本当の解決にはならない。母親や伯父、もっと言えば今ものうのうとロシアで生きている父親ときちんと胸の内を話し合っていくべきなんだ。自分の家族との不和は棚に上げて、マリヤは冷静にコーリャを見つめた。

 だが、コーリャといの一番に関係を修復すべき母親はもうこの世にいない。母親も卑怯だと責めることはとてもできない。彼女の心情をちょっと想像しようとしただけで、青二才のマリヤには芯からの震えがくる。彼女が命を絶ったのは、父親と出くわした時点で当然の結果だったのかもしれない……だけど、そのせいでコーリャの心まで真っ暗などん詰まりで凍っている。

 あたしは、軽い気持ちでコーリャをモスクワに連れて行こうとしている。そこで待っているものの正体を多少なりとも察しているのに。この旅はひょっとしたら、あたしたち両方の破滅が終着点かもしれないのに。

 コーリャは黙りこくってバスの床を見つめている。そんな姿勢だと酔ってしまう。

「もしロシアでその父親に会ったらどうする?」

 マリヤの問いに彼はきょとんとした。

「もしもの話だよ」

「うーん……どうしたらいいのかな。一緒に暮らしたくはないし……文句を言いにいくのも怖いし。でも、顔は見てみたいなって思うよ」

 マリヤはコーリャの頭に手を乗せた。

「きっと、あんたには全然似てないよ」

「うん」

 それから二人は眠った。ひどく浅く長い眠りから覚醒した時には、夕方になっていた。トイレ休憩のために降りた店で軽食を買い、バスの席で食べてまた眠った。


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