第1章 3 マリヤ
同じ時、隣の車両では、子ども同士の諍いが起きていた。些細な接触で、気が立っていた男児たちが怒りを突発的に爆発させ、狭い床で取っ組み合いにまで発展した。本来ならばそれを止める役割のはずの見張りの兵士は、扉にもたれて居眠りをしていた。眠気は戦闘の命取りだ。寝られる時に寝ておかなければならない。脆弱で従順な子どもたちしかいない電車での任務は体を休めるのに好都合だった。
馬乗りになった男児が、下の子どもの顔を強くひっかいた。悲鳴が上がり、無茶苦茶に腹や胸を蹴り上げられ、呻き声と共に押さえつける力をさらに強めた。周囲から飛ぶ声援が、ますます彼を駆り立てた。
その様子を冷めた目で眺めている少女がいる。まだ五歳にもなっていない。膝を抱えて窓にもたれ、時折襲ってくる悪夢に体を震わせる。
彼女の名前を今ここで述べることはない。まもなく不要になるからである。しかし敢えて他の子どもたちと区別をつけるために固有名詞が必要ならば、彼女の未来を先取りしてマリヤとでも呼ぶべきであろう。
マリヤはうつらうつらしながら、完全に眠ってしまうことを恐れていた。まだ記憶に生々しい一つの恐怖体験が彼女を悪夢に引きずり込むからだ。
彼女の目の前で、可愛がってくれた祖母が死んだ。銃剣によって、何度も滅多刺しにされての苦痛に満ちた死だった。肉片と血がマリヤの顔にまで飛んできた。それでも祖母は、軍靴にずたずたの体を踏みつけられて骨を折られても、まだ生きていた。痙攣しながら上げる彼女の悲鳴がマリヤにとって何よりも恐ろしかった。身動きできないマリヤをひょいと抱き上げた血にまみれた腕は、慈悲深いことに、彼女を生かしておくことを笑いながら決めた。
マリヤの少し離れたところには、やがてミハイルとなる男児がいる。よく動く大きな瞳で、周りを注意深く観察している。彼も同じ理由で、眠るのは嫌いである。
そのまた隣の車両にはベゲモートがいて、オレグがいて、アリアズナがいて、ワシリがいる。いずれもロシアに着いてから贈られる名前である。それまでの、束の間まだ自分でいられる時間を、そうとは全く知らずに無為に過ごしている。
無数の命を乗せた列車は、ロシアとの国境に近づきつつある。ロシアには、彼らの到着を待っている人間が沢山いる。子どもたちが少子化の救世主になると信じた愛国者が、不妊治療に苦しむ女が、子どもを病気で亡くした哀れな夫婦が、兵士不足に頭を痛める高官が、誰の腹を痛めることなく子どもを手に入れることができる幸運に感謝している。