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第6章 6 アンナ

「アンナっていうんだって?」

 驚いたことに、彼女は翌日もコーリャの前に現れた。閉店時間になってコーリャがシャッターを下ろしに出てきた所、彼女がぱっと暗闇から進み出たのだ。その場ではろくに言葉も交わせなかったけれど、彼女はコーリャが締め作業まで終わらせるのをちゃんと待ってくれていた。


 思いがけず嬉しかったので、コーリャは先制攻撃を仕掛けたのだ。


 彼女はその名前を面と向かって呼ばれると、露骨に顔をしかめた。

「……誰から聞いた?」

「情報源は秘匿致します」

「あたしがFSBなら、そんな言い訳は通用しないよ」

 コーリャは声を上げて笑う。彼女が歩き出したからコーリャもついていく。名物のドーナツの袋をこれみよがしに掲げると、彼女は小さくうなずいた。

「アンナさんって呼んでいい?」

「さん付けはやめて。ぞっとする」

「じゃあ、アンナ」

 彼女はまた顔をしかめた。

「その名前、まだ好きじゃない。実の親がつけてくれたらしいんだけどさ」

 神経質に頬をかく仕草で、コーリャは彼女が感じている居心地の悪さを察した。

「じゃあ、何て呼べばいい?」

 少し考え、彼女は答えた。

「……マリヤ」

 どっちにしろ、聖女様だ。

「約束通りドーナツ持ってきたから、一緒に食べようや。マリヤ」

「いいけど」

 まだ寒い夕闇の中、マリヤとコーリャはベンチに腰を下ろす。ベンチの下には十三年前の爆撃の跡が残っているが、二人は見て見ぬふりをした。

 砂糖をまぶしたパン生地にマリヤが思いっきりかぶりつく。

「うん、美味い」

「でしょ。うちの自信作」

「あのおっさん、パン作りは上手いんだ。……余計なお節介をする御仁だけど」

 投げ出すように付け加えられた一言。コーリャは眉を上げた。

「学校にチクったんだっけ」

「よく知ってるね。おかげであたしは大変だった」

 万引きなんてするからだ。そんな言葉をコーリャは飲み込んだ。

「ねえ、あんたは今どうやって暮らしてんの」

「伯父さんの家にイソウロウしてる」

「あっそう」

「従兄弟の一人が、マリヤと同じ学校にいるよ」

 その途端、ぎろりと睨まれた。

「そいつがあたしの噂を吹き込んだのか」

「うん」

 暗い中じゃ、ちっとも怖くない。そう思っているのがばれたのか、頬をつねられた。

「そいつとは仲が良いの?」

「まあ、普通。兄さんみたいなもん」

「今の家、楽しい?」

 コーリャは答える代わりに、彼女の表情を見ようとした。ドーナツの最後の塊を噛みちぎる音がして、マリヤは顔を背けてしまった。

「……楽しい、と言っていいと思う」

「何だよ、その歯切れの悪い言い草」

「マリヤはどう? ロシアの家族と、今の家族と」

 マリヤは即答した。

「どっちも、嫌い。あっちはろくでなしだったし、こっちは鼻持ちならないし」

 あたしは、どこにも馴染めないんだ__そう囁いて、彼女は立ち上がる。

「もう行くよ。外出禁止令が出てるんだ」

 やっぱり!

「それなのに、僕に会いに来てくれたんだね?」

「ドーナツを分捕りに来ただけ」

 素っ気ない彼女を何とか引き留めようと考えて、閃いた。

「ブツのお礼に、頼みがあるんだけど」

「何?」

「これ、読んで」

 手紙を差し出すと、マリヤは身を引いた。

「はあ? ラブレター? とんでもないね」

「違う違う。僕宛に、知らない女から届いたんだ。でも、ロシア語だから読めなくて」

「それを先に言え!」

 決まり悪さからなのか、ガミガミと怒りながら彼女は便箋を街灯に透かした。

「あんたなら読めるよね?」

「……ああ」

「良かった。二回もこの人から手紙が来たんだけど、さっぱり中身が分からなくて。何て書いてある?」

 わくわくしながら待ったが、マリヤはこわばった顔で手紙を畳んだ。

「ねえ、教えてよ」

 マリヤは首を振る。コーリャは憤慨した。「焦らしてンの?」

「……違うよ」

 細く折った手紙をコーリャの右手に握らせ、マリヤはまだゆっくりと首を振っている。違う、違う。コーリャは辛抱強く続きを促す。

「……コーリャ」

「はい!」

 だが、その続きは思いがけない提案だった。

「あたしと、ロシアに行かないか」



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