第6章 3 待ち伏せ
翌日、学校帰りにいつも通り菓子屋に向かった。昨日泥棒を捕まえることはできなかったけれど、立ち向かったコーリャはちょっとした勇者扱いをされていた。
ところが、裏口から入ろうとしたところで腕をぐいと引っ張られた。虚をつかれたコーリャはバランスを崩し、後ろに倒れ込んだ。すかさず喉元に刃物を突きつけられ、うっと息が止まった。
耳の側でハスキーな声が囁く。女のものである。
「大声出すんじゃないよ。そっと立って、後ろに下がって。さもないとそのお上品な喉をかき切ってやるから」
コーリャは囁き返す。
「小さい声ならいいの?」
「黙って来なさいよ」
言われた通りにした。菓子屋から距離をとるまで、白い手はコーリャの首筋をきつく押さえつけていた。
「あんたは誰?」
ふんと鼻で笑うのが聞こえた。
「関係ないでしょ」
「あるよ。昨日の人だろ? また泥棒しに来たの?」
背中を小突かれ、くすぐったさに笑いが漏れた。
「あんた、馬鹿にしてるの?」
「ううん」
「笑うなんていい度胸じゃないの。喉を切り裂くって言ったのは脅しじゃないのよ」
「そしたらあんたは犯罪者だよ」
「もうとっくにそうよ」
ナイフが喉から離れた。コーリャはゆっくりと振り返る。
ベリーショートの昨日の少女がすぐ側に立っていた。
「こんにちは」
コーリャが挨拶すると、彼女はへの字に口を曲げた。
「やっぱり馬鹿にしてるのね。いいさ、今に痛い目にあわせてやるんだから」
真正面から見た彼女は、大人の女のように険しい目でコーリャを睨みつけている。射貫く目の鋭さに母親を思い出し、少しだけ懐かしくなる。
「来て」
今日は彼女がコーリャの手首をつかみ、強引に引っ張った。コーリャは素直に従う。彼女がまだナイフをちらつかせているからである。
「昨日はよくも邪魔してくれたね。あんたの名前は?」
「コーリャ」
「新顔よね。いつ働き始めたの? 家族は?」
「最近だよ。家族はいないよ」
伯父一家の名前を出したらまずい。咄嗟にそう思った。
「いないだって? じゃあどうやって暮らしているの? 嘘は嫌いだよ」
「それ、何で答えなきゃいけないの?」
少女は足を止めた。歩道の真ん中で立ち止まると周りの大人から叱責が飛ぶ。虫を払うようにして少女が周囲を遠ざけた。
「あんた、今からどうなるのか分かってる?」
「お姉さんが教えてくれないから分かんない」
彼女は鼻を膨らませる。
「今ここで教えてあげる。あんたを誰も見てない場所に連れて行ってぶち殺すのよ。だってあたしのおやつを奪ったんだから」
「店から盗もうとしたのはあんたじゃん」
「盗んだ? あれっぽっちで随分大げさに騒ぐのね、子どもは」
彼女は嘲笑がやけに板についている。コーリャは少し考えて、理解した。
「そうか、ロシア人だからだ」
間髪を入れず彼女がうなる。
「は?」
彼女を街路樹の陰に誘導し、コーリャは言い募る。
「あんたはロシア人だから、そんな泥棒みたいな真似をするんだ。あいつら皆盗人で人殺しだって聞くもんね。僕の母さんをレイプしたロシア兵と同じ人種なんだ、あんたは」
「あたしがロシア人ですって? 誰がそんなこと言ってたの?」
「皆だよ! あんたの学校の人、皆あんたの噂してるよ。すっごく嫌われてんだね、あんた」
突然、彼女はコーリャに飛びかかった。不意をつかれてコーリャは避けることもできなかった。コーリャを真正面から押し倒し、馬乗りになって彼女は無茶苦茶に殴りつけた。といっても大した威力はなかったけれど。
地面に打ちつけられた頭の痛みをこらえながら、コーリャは呆然としていた。言い過ぎだったかな。少し後悔した。悪魔のように引きつった彼女の顔がキスできそうなほど近づいた。
「あたしは……! ロシア人なんかじゃ……! ないっ!」
「だって、ロシアから来たんだろ? 痛たたっ」
「帰りたいなんて、あたしは一言も頼まなかった!」
彼女の怒鳴り声に、涙が混ざっていることにコーリャは気がつく。
「あいつらが勝手にロシアに連れて行って! ゴミみたいな家に十二年もぶち込まれて! 覚えてもいないオヤがまた勝手にこんな所にあたしを連れて来た! それで、あたしの行儀がなってないだとかロシア語で喋るなだとか滅茶苦茶なことで怒るんだ。あたしがいない間に作った妹ばっかり可愛がって。それじゃあ、やっぱりあたしなんかいらなかったんじゃねえかよ!」
コーリャは目を見開いたまま、理不尽に撒き散らされる怒りをただ受け止めている。
「あたしはロシア人か? ウクライナ人か? 知らねえよ! 誰かが勝手にあたしの国をいじくり回すせいで、どこにも帰りたいところなんかねえんだよ!」
彼女はコーリャの胸ぐらを掴んで引っ張り上げた。抵抗しようとしたコーリャの手を叩き、彼女は弱々しく続けた。
「泥棒、泥棒って。向こうじゃこれが当たり前だったんだよ。腹が減ったら適当な店からくすねて、こづかいが足りなかったら売り飛ばして。それが間違いだなんて、今さら言われてもやめられねえんだよ」
コーリャは払いのけられた手を伸ばし、彼女の頬にふれた。彼女は驚いたように身じろぎする。指先が温かく濡れて、コーリャはやはりと思った。
彼女はいつの間にか声も出さずに泣いていた。怒りで赤く染まった肌を、透明な水が伝っていく。
「……ごめんなさい」
コーリャの謝罪に彼女は答えなかった。手を放し、ふらふらと立ち上がる。
「待って。どこに行くの?」
「……どこでもいいだろ」
「僕もついていくよ」
「はあ?」
彼女は乱暴に自分の顔を拭い、コーリャを見下ろした。
「ストーカーじゃないの」
「違うよ。むしろ……救急救命」
「意味分からない」
「だって、今のあんた、ふらふらっと自殺しちゃいそうだから」
「……しないよ、自殺なんて」
「ううん、信用できない。僕そういうのに敏感なんだ」
「ついてくるんじゃないよ」
よろめきながら歩き出す彼女の腕を、今度はコーリャがつかみ、歩調を合わせる。
「もう周りで死者が出るのは嫌だな」
「もう?」
「僕の母さんはこの間自殺した」
彼女は立ち止まった。「なんだって?」
コーリャはゆっくりと繰り返した。
「母さん、首を吊って自殺した」
その後はもう何も言わず、彼女の反応を窺う。白い頬が神経質に痙攣し、それを隠すように彼女はコーリャから顔を背けた。コートのファーが揺れてコーリャの鼻を微かにくすぐる。
「それ本当なの?」
彼女は静かに尋ねる。コーリャもそっとうなずく。顔を戻した時、彼女は口を引き結んでいた。目を合わせる。瞬時に二人の心が通じ合った__なんてことは勿論なく、彼女の黒々とした瞳の奥にどんな感情が渦巻いているのかはコーリャには分からない。彼女が殊更に感情を押し殺そうとしていることは険しい表情で察しがついた。怒っているのか、悼んでいるのか、嘲っているのか。それは彼女だけが知っている秘密である。
「__どうして、なんて聞かないよ」
「別にいいよ」
「あっそう」
腕を掴むコーリャの手をそっと外し、彼女は一歩距離をとった。
「バイトに行くんだろ。じゃあね」
「あ、待って」
「何だよ。しつこいガキだな」
さして年も違わないくせに。
「これ、あげる」
コーリャは鞄の中を探り、目当ての小さな袋を見つけて取り出した。一目見ただけで彼女は不機嫌そうにうなった。鮮やかなキャンディが詰まったビニールの袋。
「何のつもり?」
「昨日、あの後僕がもらったんだ。もう売り物にはできないからって。だからあげるよ」
「いらない」
「そんなこと言わないでさ」
コーリャは強引に袋を突き出した。目の前の菓子を押しのけ、彼女は溜息をついた。昨日は盗んでまで欲しがったものなのに。
「あんたは何なの。プレゼントのつもり? それとも嫌味?」
「違う。ただ……お詫びというか」
「あんたも大概めちゃくちゃだよ」
「似た者同士だね?」
「違うよ。あたしには親がいるけど、あんたにはいない。あんたと同じなんて死んでもいえない」
彼女は地面に視線を落とした。
「自分がこの世で一番不幸だと思っていたのが、大きな間違いだった」
「これあげるから、もっと話を聞かせてよ」
コーリャの言葉に、彼女は目を見開いた。
「そしたら、どっちが不幸か比べられるよ。それで、ましだった方が相手にご飯を奢るんだ。どう?」
彼女はキャンディを一度受け取って、それからすぐに突き返した。
「これはいらない。その代わり、あんたが貰う余った商品を持ってきて」
ドーナツとか、サンドイッチとか。付け加えられた言葉にコーリャはにやっと笑った。
「その方が値段も高いから?」
「うるさいな」
ひらりと手を振り、彼女は踵を返した。その背中に向かってコーリャは叫んだ。
「僕はコーリャ! 店で待ってるから!」
彼女の名前はまだ知らない。従兄に聞けば分かるかもしれない。




