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第6章 2 

「……ってことがあったんだよ」

 夕食の席でコーリャはその出来事を話す。スープを飲んでいた伯母が顔をしかめた。

「コーリャがこんなに頑張っているのに、ひどい子もいるものね」

「ロシア人だからだ」

 大学生の従兄弟がそう断言した。

「およし、そう決めつけるのはよくないよ。子どもの素行は生まれではなく環境で決まるのだから」

「じゃあ、その家族がろくでなしなんだ」

「そういうことになるんだろうかね……」

 それまで黙って聞いていた下の従兄弟が、首を傾げた。

「コーリャ、その子はどこの高校だって?」

「えっと、ニコの姉さんが通っているところだから……兄さんと同じ学校かも」

「その女の子のこと、少し知ってる。ロシアから来たっていうなら確かだ」

「どんな奴だって?」

 従兄弟が身を乗り出した。

「親は普通にいい人だったと思うよ。ほら、壊れた校舎を直すのに何回も寄付とかしてくれたっていう。僕らにもすごく優しいしね。でも娘さんは、最近ロシアから帰ってきて扱いに困っているんだって。授業もサボりがちらしい」

「ロシアから帰ってきただって?」

「うん。何でも、生まれたのはウクライナなんだよ。でも、戦争でロシア兵にさらわれて、十何年も向こうにいたんだ。最近になってやっと連れ戻せたんだって」

 それが本当なら、可哀想だよね。慈しむような感想に、上の従兄弟は押し黙った。

「ロシア兵にさらわれたって……」

 コーリャはスプーンを置いて呟いた。自分と反対の境遇ということだ。ロシアとウクライナ、どちらが居心地が良いのか、彼女はその答えを知っている。

 食事を終えた伯父が静かに話し始めた。

「子どもたちの誘拐は、ロシアの最も忌まわしい罪の一つなんだよ。町を壊したり、人々を意味もなく虐殺するのと同じくらい、ウクライナの未来を傷つける所業なのだ。誘拐された子どもたちは一万人を遙かに超えるといわれていて、そのほとんどが未だロシアから助け出されていない。向こうの子どものいない夫婦と養子縁組を済ませてしまい、ロシアの教育を叩き込まれてしまったから、ウクライナ人にはもう戻れないかもしれない。一体どれほどの数の親が、無理矢理に子どもを奪い取られ、今も苦しんでいることだろう……」

 「戦争」をよく覚えていない子どもたちは、神妙に話を聞いた。

「私たちも、住んでいた町を追われて地獄のような日々を過ごしたわ。弟が戦死したと聞いた時や、町を占領したロシア兵の前に並ばされた時には、自分はとうに死んで暗い地下の底にいるのだと信じるしかなかった。でも、あなたたちを連れ去られずに済んだこと、それだけが幸いだったのよ」

「お前たちは我々の宝だからね。これから先、またあんな悪夢が繰り返されることのないように日々祈り続けているよ」

 伯父の口から戦争の話をされたことは、初めてではない。口を閉ざしたコーリャの母親に代わって、この国の歴史を教えてくれたのは伯父だったから。


 父さんは。大切な話の間に、コーリャは違うことを考え始めた。まだ見ぬ父さんは、少なくとも母さんに子どもを残してロシアに帰ったんだ。それって母さんにとっては辛いことだったのだろうか?


 母さんは、僕を見るのが嫌いだった__。半ば閉ざしかけた記憶の扉は、本人の意志に反して勝手に開くことがあるらしい。コーリャから露骨に目を逸らし、言いかけたことを封じ込めて寝室に去る母親を思い出す。宿題を出さないことだったり、アルバイトが祟って授業中に眠ってしまうことだったり__細かい説教をしようとして、それでもコーリャと向き合う嫌悪感の方が勝って逃げ出してしまう母親の姿を。そんな時、彼女はよく兄を頼った。兄の方がコーリャに懐かれていることも多分見越していたのだろう。母親に怒鳴られるより、伯父に切々と説かれる方がコーリャには確かにこたえた。


 母親と、家族らしい団欒をした記憶はどこを探しても見つからない。ピクニックだって、公園での二人遊びだって、夕食を食べながらささやかな冗談で笑い合ったことだって。物心ついた頃から、母親はコーリャのことを憎んでいた。いや、怖がっていたのかもしれない。



 鏡の前に立つと、写真の中の母親と自分の姿をよく重ね合わせる。コーリャは昔から母親によく似ていると評判だった。豊かな茶色の髪に、大きな瞳。そばかすの浮いた頬。女の子のように柔らかい顔。



 最近は、その中に少しずつ違う人間の片鱗を見つけることができる。例えば、耳の形。母親の大きな耳と違って小ぶりな形だ。睫毛が短いのは男だからかな。鼻の形だって、母親より少しだけ出っ張っている。ロシア人だという父親譲りの特徴なのだろうか。


 __僕は、むしろロシアに連れて行かれた方が良かったんじゃないだろうか。そんな思いが脳をかすめた。その方が、母親を苦しめずに済んだんじゃないだろうか。


 だけど、それを伯父たちに尋ねる勇気はない。もしも困ったような顔で肯定されてしまったら、もうこれまでのように生きてはいかれない。



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