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第1章 2 ハーニャ

 ハーニャという女の子がいる。まだ二歳の誕生日を迎えたばかりである。彼女の誕生日には、期待していたお菓子やプレゼントはなかった。代わりに十字架があった。黒い格好をしたハーニャの両親に抱えられてハーニャが参加したのは、自分ではない誰かに捧げられた祈りの時間だった。


 ハーニャはふわふわの金髪と、丸いサファイヤ色の瞳の持ち主だ。長じれば誰よりも美しくなると両親はかつて度々自慢げに語った。まだ二歳の彼女はしかし、自分が生まれつき持っている財産の価値を全く知らない。何よりも好きなのは電気仕掛けで動く動物の玩具ときらきら光るイルミネーションだ。まだ、自分で歩くよりも母親に抱かれる方が好きだった。赤ん坊の妹に母親の腕の中を譲るのが嫌で、癇癪を起こして泣いたことも何度もある。姉としての愛情などというものはまだ彼女には分からなかった。



 ハーニャが好きな食べ物は、スプーンですくってよく冷ましたボルシチだ。それも母親が作る特製のハーブ入りのボルシチが。チョコレートもお気に入りだが、虫歯になるといけないので滅多に食べさせてもらえない。年に一度の誕生日には、特別にチョコレートクリームで飾り付けたケーキを作ってもらえるはずだった。


 自分より年上の子どもたちの間で、ハーニャはもがいた。隣の少年が煩わしそうにハーニャを押しのけ、きつい目で睨みつけた。その時投げかけられた言葉はハーニャには全く分からなかった。どこか聞いたことのあるような調べと、意味の分からない単語が連なっていた。

「母しゃん」

 ハーニャは呟いた。大声を出せばきつい罰を食らうと幼いハーニャでも知っていた。

「母しゃんはどこ?」

 静まりかえった車内で、彼女の言葉は存外によく通った。何人かの子が耳を塞いだ。啜り泣きをこらえようと口を覆った少女と、その子の背中を労るようにさすった友人と思しき少女がいた。見張り役は聞こえないふりをした。旅は長い。始まって早々怒鳴り続けていてはこちらが疲れてしまう。


 ハーニャは周りを見回した。どこにも見知った顔はない。ハーニャを見つけて手を差しのべてくれる母も父もいないようだ。意地悪な年上の子どもは、ハーニャにとっては限りなく恐ろしい。改めて心細さが彼女を襲った。


 その時、わざわざ子どもたちを押しのけてハーニャに近づいた少年がいた。


 彼もハーニャの声を聞いていた。「母さん」その言葉によって心におこった波は他の子どもたちよりいくらか小さいように見えた。彼は少なくとも、泣いても怒ってもいない。困ったように眉を下げ、ハーニャの隣に座り込んだ。


 ハーニャはその少年と見つめ合った。少しばかり、母親への思慕を忘れたかのように見える。まず、この少年が自分の家族かどうかを考えた。しかし彼女の頭の中のどこにも、彼に似た顔はない。次に、少年が敵か味方かを本能の部分で判断しようとした。この何ヵ月かで、かなり鍛えられた本能である。敵であるかどうかの判断は簡単だが、凡例が多い。ご飯を奪う者は敵、自分より先にシェルターに逃げ込むのは敵、黒光りする玩具のような筒を向けてくる者は言わずもがなである。


 一方、少年はハーニャを見て複雑な感慨を抱いていた。彼自身には弟も妹もいない。しかし、つい先日、この列車に乗せられることになる少し前に、破壊された街で一人の少女に出会ったことがあった。


 母親と手をつないでいた少年に対して、その子はひとりぼっちだった。ハーニャと同じくらいの背丈で、まだ一人歩きもおぼつかない小さな足で、孤独に逃げ回っていた。気になって追いかけようとした少年を、母親が強引に引き戻した。このままでは彼の上に死が降ってくるところだったからだ。


 それっきり、少女の姿を見ることはなかった。安全だと思っていたシェルターに降りると、奇妙な発音で喋る兵士たちが待ち構えていた。あっという間に少年は家族と引き離され、丹念な身体検査を受けた後にこの列車に乗せられた。ハーニャを見るまで、名前も知らぬ少女のことは忘れていた。


 もしかして、あの時の子かもしれない__若干の期待を込めて少年はハーニャを見た。髪の色と背格好は同じだ。しかし、それくらいの子どもはごまんといる。少し分別のある大人であれば、別人だと判断するだろう。

「お名前は?」

 ハーニャは、少年の問いかけに首を傾げた。少し訛りの入った話し方、しかしそこに優しさの響きを確かに感じ取った。

「ハーニャ」

「良い名前だね」

 少年は特に意味もなくそう返した。

 彼の名前はフョードルという。しかし、この子に告げるまでもないと思った。少なくとも、お兄ちゃんは誰なのと聞かれるまでは。

 十歳の少年には、これからの運命の見当がほんの少しだけついていた。少なくとも、今までより楽しい思いをすることはない。

 ハーニャの顔がまた曇った。母親を思い出したのだろうとフョードルは察し、深く同情した。フョードルは、これまでの生活については__まして、楽しかった思い出なんてものは__脳の中の頑丈な箱に閉じ込めて決して出さないようにときつく自分に戒めてきた。戦争が急に始まってから、強く心を持てと、尊敬する父親に言われたことを実践したつもりだ。しかし、自分より一回りほど幼い子にまで強制する気にはなれない。

 何か、ハーニャと自分の気が紛れるようなものがあればいいと思った。ポケットに隠した飴は取り上げられてしまった。玩具は捨ててきた自分の家に置きざりだ。食事を摂ったのはかなり前だが、昼食が支給される気配もない。見張りをこっそり窺うと、毒々しい色の煙草をけだるそうに吐いていた。

「見てごらん」

 フョードルは悩んだ末に、指を絡め合わせて動物のシルエットを作った。ハーニャの目が瞬いた。

「うさぎ?」

「そう」

 ハーニャは細く小さな指をいじくり、真似をしようとした。けれど、なかなか上手くいかい。

「これはどうかな?」

 フョードルは両手を交差させた。

「蝶々だよ」

「ちょうちょ?」

 これなら簡単だ。ハーニャは即席の蝶を羽ばたかせる。さくらんぼのような唇がわずかにほころんだ。それを見てフョードルも少しだけ温かな気分になった。



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