表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/98

第5章 3 シロン

「やあ、シロン」

 シロンを見下ろし、男はほっとしたような声を出した。

「帰ってきたんだね? お母さんもいる?」

「はい」

 中を示すと、男はずかずかと玄関に入り込む。

「ウクライナに行ってしまったと聞いて……昨日も来てみたんだけど」

 昨日なら確かにウクライナにいた。

「すみません、お土産もなくて」

「いいんだ、いいんだ。君が生きてここにいるのが何よりのお土産だよ」

 シロンはまじまじと男を見つめる。

「どうして、そんなことを言うんです?」

 ほっそりとした男は、落ち着きなく指を自分の額に這わせて言葉を絞り出す。

「いや……気になっていて……君のお母さんに手紙を貰ったんだけど」

 シロンは一つしかない寝室兼居間を仰いだ。母親の座っている位置はここからは見えない。

「どんな手紙です?」

「なんというか、直接的なことは言わないんだけど、こちらに不安を抱かせるような……まるで、シロン君とお母さんが死のうとしているんじゃないかって」

 シロンは表情を変えない。

「ご、ごめんね。こんな勘ぐりをされちゃあ気分が悪いよね。全くの戯れ言だから、流してくれていいんだよ」

 男は普段から、シロンに対してもこんな気を遣った話し方をする。きっと優しいのだ。嫌いではない。けれど、信用もまだできない。

「母さんに会いますか?」

「いいの?」

 シロンは部屋を覗いた。ぼうっとしていた母親がシロンの呼びかけで慌てて立ち上がった。

「あら、イサコフさん……」

 ほんの一瞬だけど、母親の顔が赤く染まった気がした。

「急に来てごめんなさい。旅行で疲れていたでしょう」

「いいの。暇してた所だったから。ねえ、シロン?」

「……うん」

 シロンは後ずさりした。母親がイサコフに親しげに手を伸ばす。応じるイサコフの顔も柔らかい笑みで彩られていた。

「出かけてくる」

 シロンがそう言うと、母親は大きな声を出した。

「あら、どこに?」

「散歩」

 母親もイサコフも、それ以上止めようとはしなかった。おざなりに手を振り、シロンは後ろ手にドアを閉めた。


 なんだ。本気で死にたかったのは僕だけか。小さく声に出して呟くと涙が出そうになる。不覚だ。母親のささやかな喜びに気づかなかったことも。もしあの事件が起こらなければ、シロンは母親を道連れにして死ぬところだった。彼女から新しい恋人を奪って。


 母親が「女」の顔をしたことにさほど不快感はなかった。ただ、意外だっただけで。自分がそうした体験にまだ無縁なため、また母親を愛する男を実際に見たことがないせいで、誰もが恋愛をするのだということに思い至らなかった。


 同級生はどうだろう。金持ちの連中なんかは、彼女と遊園地にでも出かけているのだろうか。教室内でも何組かのカップルがいる。楽しげに動画や写真を撮り合い、臆面もなくお互いの体をべたべた触っている。


 では、コーリャは? 彼のことを考えようとして、やっぱりやめた。二度と会わないのならば、忘れてしまった方がいい。


 家の近くをあてもなく歩いていると、同級生の群れに出くわした。彼らは揃いの帽子を被り、大声で笑い合っていた。誰かが冗談を言ったらしい。何の屈託もなく、休暇を楽しんでいた。


 普段だったら殊更に彼らを避ける。けれどこの日はぼんやりと彼らの目の前まで来てしまった。学校でシロンを支配している恐怖が、今は希死念慮と共に抜けていったかのようだった。


 彼らはすぐにシロンに気がついた。あっという間に囲まれて、シロンは逃げ場をなくした。

「ようシロン、元気そうで嬉しいよ」

 主犯格の少年が言った。学年トップの成績を誇る優等生だ。

「今からお前に会いたいと思っていたところなんだ」

「そう」

 シロンは呟く。

「ちょっとした、面白いショーをやろうと思ってさ。お前の家の近くに野良猫がいるだろう? そいつを地面に固定して、自転車で何回も轢くんだ。勿論、お前がだぜ。何回目で猫は死ぬかな?」

「どうでもいいよ」

 シロンは答える。

「それ、僕がいないといけない?」

「生意気言うようになったか?」

 一人がシロンの肩を抱き込んだ。体格の良さがツアー客の一人を思い出させる。

「いいから来いよ。楽しい遊びに混ぜてやるんだ、喜べよ」

「何が楽しい」

 シロンは無表情で同級生の顔を見返した。

「それよりも、動画を撮るのはどう? 今から僕が死ぬから、それを皆で撮っててよ。薬だって用意してあるんだから」

「へえ? お前、死ぬってか?」

「そうだよ」

 シロンはポケットから薬の入った袋を取り出し、中身を手のひらに開けた。トローチのような薬がばらばらと散った。迷わずにシロンはそれら全てを口の中に放り込んだ。

「おい!」

 悲鳴のような声が周囲で上がる。シロンは構わず目を閉じた。力を抜き、背中から雪の上に倒れた。

 バラバラと慌てて駆け出す音がした。目を開けると、誰もいない。逃げ去ったらしい。

「意気地なし」

 トローチはまだ口の中で溶けずに残っている。雪の上に吐き出し、しばらくシロンは仰向けに寝転んでいた。薬は回収しなくちゃ。きっと何かの役に立つ。

「僕の方が意気地なしだ」

 そう自嘲し、また目をつむった。今ここで死んではいけない理由は何一つなかったのに。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ