第5章 3 シロン
「やあ、シロン」
シロンを見下ろし、男はほっとしたような声を出した。
「帰ってきたんだね? お母さんもいる?」
「はい」
中を示すと、男はずかずかと玄関に入り込む。
「ウクライナに行ってしまったと聞いて……昨日も来てみたんだけど」
昨日なら確かにウクライナにいた。
「すみません、お土産もなくて」
「いいんだ、いいんだ。君が生きてここにいるのが何よりのお土産だよ」
シロンはまじまじと男を見つめる。
「どうして、そんなことを言うんです?」
ほっそりとした男は、落ち着きなく指を自分の額に這わせて言葉を絞り出す。
「いや……気になっていて……君のお母さんに手紙を貰ったんだけど」
シロンは一つしかない寝室兼居間を仰いだ。母親の座っている位置はここからは見えない。
「どんな手紙です?」
「なんというか、直接的なことは言わないんだけど、こちらに不安を抱かせるような……まるで、シロン君とお母さんが死のうとしているんじゃないかって」
シロンは表情を変えない。
「ご、ごめんね。こんな勘ぐりをされちゃあ気分が悪いよね。全くの戯れ言だから、流してくれていいんだよ」
男は普段から、シロンに対してもこんな気を遣った話し方をする。きっと優しいのだ。嫌いではない。けれど、信用もまだできない。
「母さんに会いますか?」
「いいの?」
シロンは部屋を覗いた。ぼうっとしていた母親がシロンの呼びかけで慌てて立ち上がった。
「あら、イサコフさん……」
ほんの一瞬だけど、母親の顔が赤く染まった気がした。
「急に来てごめんなさい。旅行で疲れていたでしょう」
「いいの。暇してた所だったから。ねえ、シロン?」
「……うん」
シロンは後ずさりした。母親がイサコフに親しげに手を伸ばす。応じるイサコフの顔も柔らかい笑みで彩られていた。
「出かけてくる」
シロンがそう言うと、母親は大きな声を出した。
「あら、どこに?」
「散歩」
母親もイサコフも、それ以上止めようとはしなかった。おざなりに手を振り、シロンは後ろ手にドアを閉めた。
なんだ。本気で死にたかったのは僕だけか。小さく声に出して呟くと涙が出そうになる。不覚だ。母親のささやかな喜びに気づかなかったことも。もしあの事件が起こらなければ、シロンは母親を道連れにして死ぬところだった。彼女から新しい恋人を奪って。
母親が「女」の顔をしたことにさほど不快感はなかった。ただ、意外だっただけで。自分がそうした体験にまだ無縁なため、また母親を愛する男を実際に見たことがないせいで、誰もが恋愛をするのだということに思い至らなかった。
同級生はどうだろう。金持ちの連中なんかは、彼女と遊園地にでも出かけているのだろうか。教室内でも何組かのカップルがいる。楽しげに動画や写真を撮り合い、臆面もなくお互いの体をべたべた触っている。
では、コーリャは? 彼のことを考えようとして、やっぱりやめた。二度と会わないのならば、忘れてしまった方がいい。
家の近くをあてもなく歩いていると、同級生の群れに出くわした。彼らは揃いの帽子を被り、大声で笑い合っていた。誰かが冗談を言ったらしい。何の屈託もなく、休暇を楽しんでいた。
普段だったら殊更に彼らを避ける。けれどこの日はぼんやりと彼らの目の前まで来てしまった。学校でシロンを支配している恐怖が、今は希死念慮と共に抜けていったかのようだった。
彼らはすぐにシロンに気がついた。あっという間に囲まれて、シロンは逃げ場をなくした。
「ようシロン、元気そうで嬉しいよ」
主犯格の少年が言った。学年トップの成績を誇る優等生だ。
「今からお前に会いたいと思っていたところなんだ」
「そう」
シロンは呟く。
「ちょっとした、面白いショーをやろうと思ってさ。お前の家の近くに野良猫がいるだろう? そいつを地面に固定して、自転車で何回も轢くんだ。勿論、お前がだぜ。何回目で猫は死ぬかな?」
「どうでもいいよ」
シロンは答える。
「それ、僕がいないといけない?」
「生意気言うようになったか?」
一人がシロンの肩を抱き込んだ。体格の良さがツアー客の一人を思い出させる。
「いいから来いよ。楽しい遊びに混ぜてやるんだ、喜べよ」
「何が楽しい」
シロンは無表情で同級生の顔を見返した。
「それよりも、動画を撮るのはどう? 今から僕が死ぬから、それを皆で撮っててよ。薬だって用意してあるんだから」
「へえ? お前、死ぬってか?」
「そうだよ」
シロンはポケットから薬の入った袋を取り出し、中身を手のひらに開けた。トローチのような薬がばらばらと散った。迷わずにシロンはそれら全てを口の中に放り込んだ。
「おい!」
悲鳴のような声が周囲で上がる。シロンは構わず目を閉じた。力を抜き、背中から雪の上に倒れた。
バラバラと慌てて駆け出す音がした。目を開けると、誰もいない。逃げ去ったらしい。
「意気地なし」
トローチはまだ口の中で溶けずに残っている。雪の上に吐き出し、しばらくシロンは仰向けに寝転んでいた。薬は回収しなくちゃ。きっと何かの役に立つ。
「僕の方が意気地なしだ」
そう自嘲し、また目をつむった。今ここで死んではいけない理由は何一つなかったのに。




