表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/98

第4章 2 コーリャとロシア

 コーリャがその秘密を知ったのは、彼がまだ7歳の頃だった。母方の伯父一家がコーリャだけを夕食に招いてくれた。伯父はいつもコーリャを子ども同然に可愛がってくれる。従兄弟たちもだ。電車を乗り継いでクラマトルスク市の伯父の家に行くと、毎年ボルシチとケーキ、それにプレゼントが用意されている。ただし、コーリャの母親は決してお祝いに参加しない。コーリャが物心ついた時から、何があっても。仕事に出かけているのだろう。


 7歳の誕生日に、コーリャは思いきって父のことを同席していた皆に尋ねた。朗らかで何をしても怒らない伯父たちなら、答えてくれるだろうと思ったのだ。

「僕のお父さんは、どこにいるの?」

 伯父たちは、困った顔をした。いつもふざけている年上の従兄弟さえ、口をつぐんで両親の顔を窺っていた。コーリャが伯父一家の面々を見回すと、妻に肘でつつかれた伯父がようやく口を開いた。

「お前のお父さんはロシアの人なんだよ。だけど、今はどこにいるかさっぱり分からないんだ」

 コーリャは困惑した。自分にロシア人の血が流れているなんて想像したこともなかったから。

 母親はロシアを憎んでいた。寡黙な女性だったが、それはロシア語を話すのが耐え難く不快だからだと公言していた。ロシア語話者の中で生まれ育ったコーリャにはなんとしてもウクライナ語を話させようと、幼い頃は家庭教師を雇い、学校に入学する年齢になってからはわざわざウクライナ語で授業を行う遠くの学校に通わせることを独断で決めた。今でも、片言でもウクライナ語でなければ、絶対にコーリャに話しかけようとはしない。また、ロシア語をコーリャが少しでも話せば、手に持っていた物で激しくぶった。

「僕が、ロシア人? 何で?」

「違う、お前はロシア人ではないよ。れっきとしたウクライナ人だ。ただ……」

 再び、伯母が伯父の脇腹を突いた。伯父はそれではっと口を閉じ、それ以上は何も語ろうとしなかった。

 それ以来、ロシアを見るコーリャの目の色が変わった。今まで恐ろしい敵の国だと思っていたが、自分の父さんの故郷だったんだ。今もあの広い広い隣国のどこかで、父さんが生きているんだ。


 それは、わくわくする想像だった。コーリャが思い描く父親は、伯父のように優しくて、一家の長としての威厳があった。きっと兵士だ。ロシア人といえば兵士だから。勇敢で、逞しくて、機知に富んでいて……いくらでも自慢できる。何せ、理想の中の父さんだから。

 コーリャは自宅に帰っても、母親には何も尋ねなかった。伯父夫婦に固く口止めされたのだ。何故か母さんは父さんの話をしたくないらしい。喧嘩したのか、悲劇的な別れだったのか。


 コーリャは両親の間に揺るぎない愛情が今も存在していることを決して疑わなかった。伯父夫婦の仲の良さを見て育ってきたからだ。彼らはいくら喧嘩をしても、数時間後には必ず仲直りした。出かける時は常に一緒で、特に伯父の方は伯母の肩をしっかり抱いて歩く。街中でも、田舎にピクニックに出かける時も。


 いつか、母さんと一緒にロシアに行きたい。7,8歳の時、コーリャはそんな夢を抱いていた。きっと父さんもロシアで待っている。家族が一緒になれば、母さんももっと元気になるだろう。


 13歳になったコーリャは、自分だけでもロシアに渡りたいと夢を少しだけ変更した。ロシアにはきっと、体験したことのない生活が待っている。心を病んだ母親とのどうしようもなく息が詰まる日々よりも遙かに魅力的な何かがある。まだそれだけは信じている。


 母親をロシアに連れて行くことは諦めた。何気なくコーリャの野望を従兄弟に話し、それが母親に伝わった時、今までで一番の折檻を受けたからだ。真冬にアパートから叩き出され、凍え死にそうになりながら街をさまよったのは10歳の時だった。今でもはっきりと覚えている。警察に保護されて連絡がいっても、母親は決して迎えにこようとしなかった。結局伯父が警察署まで出向き、呆れたような口調でコーリャを叱った。いつもは楽しい伯父一家の家が、ひどく気詰まりな密閉空間に様変わりしていた。母親にロシアの話題は何があってもしてはいけないと身をもって学んだ日だった。


 母親は、コーリャを罵る時だけ、饒舌にロシア語を話す。普段話しかけてくる時__穏やかであるのはごく稀なのだけど__は、学習中のやや拙いウクライナ語を意地でも使うのに。おかげで汚いロシア語ばかり頭に残る。


 伯父は親切だが、激昂する母親を止めてはくれない。ぶたれるコーリャを悲しげな表情で黙って見守るだけ。そして後で(母親の見ていない所で)慰めてくれる。そんな時だけ、コーリャは自分の周りの人間がたまらなく嫌になる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ