第4章 1 コーリャ
所変わってウクライナのドンバス地方、ドネツク州マリウポリ市に、コーリャという少年がいた。13歳である。父親はおらず、母親と二人で低家賃のアパートに暮らしている。
電車で片道二時間かかる中学校に通っているため、コーリャの朝はとても早く、夜は遅い。朝四時半にはベッドを出ないと電車に乗り遅れてしまう。ペットボトルのコーヒーを眠気覚ましに流し込みつつ、食料棚を漁る。昼食を学校で購入する金の余裕はない。干からびていない果物や袋入りのパンが残っていれば儲けものである。4時45分、母親はまだベッドの中だ。声をかけて起こすようなことはしない。従兄弟のお下がりのスニーカーを履き、そっと扉を開ける。その拍子に落ちた新聞を拾って靴箱の上に載せておくのも忘れない。
アパートから最寄りの駅まで早足で10分。1時間に1度来る目当ての電車の到着時刻が5時。ホームで息を整えた頃にはもうベルが到着を知らせている。電車に乗ると、同じ学校のバッジをつけた少年たちがちらほら見える。コーリャよりもっと遠くから来ている猛者がいるのだ。
コーリャの住んでいる街にだって、学校はいくつもある。とりたてて入学が難しい訳でも、学費がかかる訳でもない。むしろ、今のコーリャの方が様々な点で無理をしている。
それでもコーリャの通う学校には、彼の母親がどうしても通わせたいと決めた大きな理由がある。そのために母親はいくつもの仕事を掛け持ちし、夜遅くまで働き詰めである。平日のこの親子はほとんど顔を合わせて会話をしない。休日だって母親は忙しく働いている。最近、新しいパートを職場に内緒で始めたのだ。
台所でたまたま見つけたチョコレートをかじり、コーリャは息を吐いた。白い。朝のうちは暖房がちゃんと効いていないのだ。
2035年の2月、学校では毎年恒例の戦争学習が行われる期間である。コーリャの学年は5人程度のグループでレポートを作り、クラス全体の前で発表することになっている。テーマは様々だ。戦争で活躍した武器について。市民に及ぼされた被害について。ロシアは何故ウクライナ侵略に至ったか。
コーリャの班のテーマは、侵攻から終戦までの経緯の年表作成に落ち着いた。無難といえば無難だ。だけど淡々と事実を書き起こしていくのは簡単そうに見えて難しい。
戦争学習への皆のやる気にはいくらか温度差があった。多くの生徒は真剣に取り組んでいるし、中には試験以上の熱意を見せる子もいる。だがその一方で、一定数の生徒は少し冷淡な態度をとっているように見える。積極的に参加を拒否する訳でもないが、自分の意見を明かさず単純作業の指示をただ待っている。
そうした子たちの中には、片方の親がいなかったり、衝突の激しかった地域から引っ越してきた子がかなりの数混ざっていたりする。だから教師もやたらと参加を促すことはない。また、もっと少数派ではあるのだが、実はロシア生まれという子も、あまりグループ活動には関わりたがらない。正体がばれて苛められるのを恐れているのかもしれない。だが、本人が隠しているつもりでも、そうした家庭背景の噂は驚くほど早く学年中に広がるものである。
さてコーリャはというと、特に熱心という訳でもなければ、やる気がない風にも見えない。こうしたいああしたいと級友に訴えることは元々少ない子ではあるが、不感症を決め込んでいるのでもなく、分担された仕事を時折ふざけ合いながらこなしている。
ただ一度だけ、コーリャがレポートのテーマを提案したことがあった。
「ロシア人との和解策を考えるのはどうかな」
このアイデアはメンバーによってすぐに却下されてしまった。初めてコーリャと同じグループになった子は、ちょっと悪趣味な冗談だと受け止めた。彼と親しい子たちは、またコーリャの叶わない願望が始まったと呆れ混じりに笑った。
コーリャはロシアが嫌いではない。いや正確に言うと、親しみと憧憬を抱いてすらいる。理由は単純明快、彼の父親がロシア人らしいからである。




