早く窓から飛び降りて死ね
やっべ。数学の問題集忘れたと思って教室に取りに戻ると耕助くんが一人で窓際の机の上に座って夕日の中でたそがれていた。私に気づいて(やべ)みたいな顔をする。視線があう。私も耕助くんを見つけて(やべ)と思ったが、かといって視線があってから無視して出て行くのは相手の機嫌を損ねる気がして仕方なく教室に入る。
自分の机をがさごそ探って数学の問題集を見つけてそそくさカバンに入れる。耕助くんがじっーっと私を見ててすげー居心地が悪い。「芥川知子」不意にフルネームで呼ばれる。呼ばれたら無視するわけにもいかず顔をあげる。「何?」返事をしたら、耕助くんは自分から呼びかけたくせに言うことをまとめてなかったらしくて眉間に皺を寄せて黙り込む。早くなんか言えよ。
「巻島に謝っといてくんね」
表情を崩してへらへら笑って言う。
ピキっときた。こいつを今更謝らせたところで優子ちゃんはたぶん教室がこわいままでなんの解決にもなんないんだろーが、それでも謝罪まで他人に押し付けるのかよ。てめーのせいでこのクソ面倒な状況になってて私は幸と由香里の間で圧死しかけなんだぞ。
「自分で言えば」
言ってから、これが私の本心から出た言葉の方ではなくて耕助くんが言ってほしかった言葉の方だと気づいた。私の言いたかった言葉は「早く窓から飛び降りて死ね」だった。耕助くんは「そうだよなぁ」と言って溜め息を吐く。
「あんなことするつもりなかったんだよ」
「知ってる」
早く会話を切り上げて帰りたいはずなのに私の身体は私の心を無視して自分の机の上に尻を乗っけちゃっている。耕助くんの話しを聞いてやる気でいる。私は(おいおい、正気か?)と思う。この暴力猿の言うことに一ミリも価値なんかなくてそこから吐き出される言葉なんて所詮都合のいい自己弁護くらいだろうに。
「あれ以前に、俺、空気読めてなかったよなぁ」
耕助くんは意気消沈している。
“あれ”ってのはたぶん殴ったことだろう。
「思い返してみたら巻島、だいぶ迷惑そうだったなって」
気づくのがおせえよ。
気づけただけでも猿からチンパンジーくらいには進化できてるのかもしんない。
所詮はチンパンジーだが。
「俺が小学生のころいじめられてたの知ってる?」
「知らない」し、興味もない。
「けっこうひでーことされてたんだよ。中学ではもうあんなの嫌でさ、それでバカにされたらカッとなっちゃってもうわけわかんなくなっちゃうんだよね。ほら、ナメられたら終わりじゃん」
それはそーかもしれない。私たちの社会は狭く、深い。一度沈めば浮き上がるのは容易ではない。だから私たちはナメられないように必死で化粧やら強気の態度やご機嫌取りやらで取り繕いながら他人の評価を気にして生きている。大人になったら変わるんだろうか。この動物園の檻の中から私たちは解放されるのか? される気は、あんまりしない。
「おまえさ、内心で俺のことクソバカにしてるだろ?」
耕助くんが言った。
私は反射的に「そんなことないよ」と返したが内心を言い当てられてびくつく。
「いいよ。クラスのやつはだいたい本音だと俺の事バカにしてると思ってるから」
表に出さないだけおまえはましな方。
そんな風に耕助くんが私を見限る。
「巻島だけは俺のことバカにしてないなと思ったんだよ。でもそれって俺のことを特別好きなわけじゃなくて“バカにしてなかった”だけなんだよな。プラスじゃなくて、マイナスではないってだけなんだよな。俺、それ気づけなかったんだよ」
ほんとにあんなことするつもりじゃなかったんだ。
ぽつりと呟く。耕助くんは相変わらずへらへら笑ってるけどそのへらへら顔が違う表情を押し潰すためのものだと気づく。耕助くんは笑ってないといまよりももっとクソバカにされるから笑っている。無論のこと耕助くんはチンパンジーである。チンパンジーであるからには人間に笑われるのは当然だ。でもチンパンジーはチンパンジーなりにチンパンジーだとバカにされるのは嫌なわけだ。チンパンジーだとバカにされないためには人間まで進化する必要があるのだが残念ながら耕助くんはまだ人間まで進化できない。耕助くんにはピエロがピエロだと気づかれないようにピエロを演じているような悲しさがあった。
「巻島に謝っといて」
と、もう一度言った。
もしかしたら優子ちゃんが自分に死んでも会いたくないことを悟っていて私に伝言を託したのかもしれない。
「呼び留めて悪かったな」
しっしっ、と私を追い払う。
「あ、うん」
私は教室を出た。