デバフ
私が間違っていた。
優子ちゃんのいない教室は地獄だった。
十月に入って一年二組は崩壊の兆しを見せている。きっかけは些細なことでなんかの拍子に由香里が「幸のあの青のネイルをだっさいよね」とぽろっと溢した。それが伝言リレーで幸の耳に入った。ゆるふわ可愛い系女子(気取り)の幸にとっておしゃれをバカにされることは堪えられないことだったらしく、幸はバレー部の172㎝の期待の新人である由香里のチームメイトから仕入れてきた悪口の山を報復としてクラス内にぶちまけた。「調子乗ってる」、「先輩にへこへこしててださい」、「顧問の城山に色目使っててきしょい」バレー部で汗流してて結構まじめにやってる(つもりの)由香里からしてもスポーツ面でのいじりは堪えられなかったようで、昨日までは仲良く二軍女子をバカにしていた幸と由香里は瞬く間に戦争状態に突入し、女子達は二人のどっちにつくかを迫られそれぞれ背いた側にぼろくそに言われている。持ち前のほんわか感で二人の間にうまく入って仲裁して、はい仲直り! とやってくれてた優子ちゃんがいないだけであの二人こんなギスれるんだな。むしろなんで仲良くしてたんだ? できてたんだ?
男子は男子で優子ちゃんの前でいい恰好をしていたいという最低限の歯止めすらなくした耕助くんとその取り巻きが毎日芦川くんを転ばせて蛙にして遊んでいる。「ぎゃはははは」と品のない声で笑い転げている。
人の悪意に敏感な方の私としてはあの教室のぴりぴり感はちょっと堪えがたい。
右を向けば幸からの由香里への悪口が聞こえて左を向けば由香里からの幸への悪口が聞こえる。そして正面を向けば教卓の前で耕助くんが芦川くんを転ばせている。
私の逃げ場はもはや掃除用具入れのロッカーの中にしかないように思えたがそこに逃げ込む変人と化せるほどの私はまだキマりきっていなかった。
なによりも幸の前では「由香里うざいよねー」と言い、由香里の前では「幸うざいよねー」と言っていてどっちにもつかずにふらふらしている私のメッキが剥がれて両軍から袋叩きにされるのは時間の問題に思えた。
この教室はオワっている。
向井先生に問題解決能力がないことはあきらかだった。先生はあきらかに昼休みに芦川くんの背中を耕助くんが蹴ったことを認識していながらそれを無視した。教室の窓から向井先生がその現場を目撃しながらなにも言わずにそっと教室から離れて行ったのを私は見た。おそらくだけど優子ちゃんのときみたいな派手な暴行事件にさえならなければガス抜きになって丁度いいとすら思ってんじゃないかな。女子の戦争については認識すらしていない。
授業が終わり、うちに帰ってベッドに体を投げ出す。圧縮されてふかふか感がまったくなくなった布団が私をどうにか受け止める。ゲーセンの景品のやたら爪が長くて目つきが悪いピンクの熊のぬいぐるみと視線をあわせる。そこから写真立ての中に飾ってある長尾竜星くんのポストカードに視線を動かす。アイドルグループのエースのげろ甘イケメンフェイスが私を多少癒してくれる。
疲れた。体よりも心が疲れた。
一か月前までは(わりと)平和だったじゃないか。
いったい何がそんなに変わったっていうんだ。ただ優子ちゃんがいなくなっただけなのに。
たったそれだけのことでなにもかもが荒廃するほど私たちの世界は脆かったのか。
考えが甘かった。
優子ちゃんをなんとかして教室に復帰させなければならない。
優子ちゃんに幸と由香里を宥めさせて耕助くんの歯止めとなってすべての防波堤にして私を守ってもらわなくてはならない。そうじゃないとあの教室は酸素が薄すぎて私を窒息させてしまう。私はふらふらと起き上がり、着替えて優子ちゃんの家に向かった。竜星くんよ、私に力を。
インターホンを鳴らせば前と同じように優子ちゃんが私を迎えてくれる。にこり。笑う。
もこもこパジャマのかわいくて本質的に善良で人畜無害なこの優子ちゃんを見ているとなんでこの子をわざわざ教室から排除するようなことになったんだろうとほんとうに思う。どこからどう考えても保健室かなんかに隔離されるべきは耕助くんの方じゃないのか。もっといえば幸と由香里も追い出してくれ。
優子ちゃんは最近塾の他にYouTubeで動画を見ながら学習していることを話してパソコンをつける。パソコンの画面の中でそこそこ顔のいいおっさんが黒板を映し出して三角関数とやらの解説をしている。動画での学習は早送りも巻き戻しもできるからわからなかった場所を繰り返し聞くことができて、結構わかりやすいそうだ。
私が「宿題あるからここでやってもいい?」訊くと快く頷いてくれて、優子ちゃんも勉強道具を開いたら優子ちゃんは学校の授業よりもずっと先のところの問題集をやっていた。優子ちゃんは学校を必要としなくなってきている。つーか無限に時間潰せるYouTubeって娯楽アイテムを用いて家で勉強できるって優子ちゃん鋼の意思でも持ってんの? 私だったら絶対バカYouTuberがバカやってる動画でげらげら笑って時間を無駄にしている。たぶん優子ちゃんみたいなやつがいい高校入っていい大学入って将来的には日本を動かしてくんだろう。けっ。
優子ちゃんは私の手が止まってるのを見て私のノートと教科書の問題を覗き込む。手が止まってる理由が問題がわからなかったせいだと思ったらしく(その通りだったが)「えっとね。そこはね」言葉はたどたどしく、でも手の方はかろやかに立体の側面関と表面積を導き出してくれる。
おだやかな時間だった。優子ちゃんがいれてくれたお茶とクッキーを飲んで食べてやってたら宿題は三十分できれいさっぱり消滅したし内容も頭にしみ込んだ気がする。授業中は全然内容が頭に入ってこなかったのに。教室がギスってる状況が私にかけてるデバフは結構デカいのかもしれない。そしておそらく他のみんなにも同じデバフが掛かっている。
ふと思う。
私は私のために優子ちゃんをなんとしても教室に戻さなければならない。
けれどあのギスギスウザウザの教室に優子ちゃんを戻してデバフに巻き込むことは優子ちゃんにとってどうなんだろうか?
優子ちゃんは自宅と塾でちゃんと勉強できているのだから出席日数がどーたらとうぜってえことを言い出すおっさん共がいなかったらべつにこのままでもまったく問題はない。ヒキコモリはコミュニケーション能力がどーたらとか言われてもどう考えても対人能力に問題があるのは優子ちゃんではなく教室でギスってるやつらでこうして私の隣でおだやかに微笑んでいる優子ちゃんはいたって正常だ。これって社会のバグの一種じゃないのか。
もちろん世の中のヒキコモリが全部コミュ力に問題がないわけじゃないのだろうが少なくとも優子ちゃんは例外だろう、たぶん。