オーディン・ベッキングハムと路傍の石
来客を知らせるノックに、ギュイオットは扉を開けるよう促した。
「ギュイオット、ついに観念したか」
弾んだ声に、シーラは耳を疑った。オーディンが、にこやかにギュイオットに話しかけている。表情を取り繕い、部屋の隅で気配を消しておく。
「どのみちすぐ騎士団の方に戻るよ、教師役などただの腰掛けだ。こんなところ、肩が凝って仕方がない」
オーディンが剣の実技を、ギュイオットが兵法座学を王太子に手ほどきするために召し上げられたときく。その関連でシーラも人事異動の命が下った。
「同感だ。……パウエル! お前がギュイオットの付き人か。やったじゃないか」
新米ながら団長付きになるということは、将来を買われてのこと。付き人とは呼ばれるが、内々の弟子と見做される
「はい。目をかけていただいたおかげです。オーディンさまには、……マルコム・アルノですか」
「やぁ。パウエル・ホーランド」
誇らしげな少年と、いまいましげに目を鋭くする少年。関係性がわかりやすい。ギュイオットに不満というわけではなさそうだが、パウエルはきっと、オーディン付きになりたかったのだ。
「オーディン・ベッキングハム、きみの節穴には美しい花が入らないのかい? 紹介するよ、シーラ・グリーン嬢だ」
突然名前を呼ばれて、とっさに深い礼をした。彼にとっては何の価値もないただのメイドなのだ、名前を知ったところでどうということもないのに。
オーディンの横髪がはらりと落ちた。その様子を見ただけで、くらくらと足が崩れそうになる。
「……ああ。失礼」
それだけだった。
この冷ややかさこそがオーディン。しかしギュイオットとは旧知の仲らしく、そのまま話は続けられた。
シーラはオーディンに着いてきた小柄なメイドに目配せをして近寄り、お互いシーラ、シドニーと名前だけを教えあった。それきり大人しくしている。
この時点で、シーラは路傍の石以下だった。小石でさえ、戦闘ともなればオーディンに拾われて、味方への合図として使われるなど有益な道具となる。そういう意味でも、シーラはオーディンの気にも留める存在とはならなかった。
加えてシーラはなんの主張もしなかった。
こんなに間近で見て、認識されて、話すことだってできたのに。
「オーディンのこと、好きなんじゃなかったのかい?」
彼らが去った後に、ギュイオットからどうして顔見知りの機会を棒に振ったのか尋ねられた。
「……恐れおおい、ただの憧れです」
いまでさえ近距離で見れた姿に胸の高鳴りがおさまらない。遠いとおい雲の上の人。
「そうかい?」
「私は人の意図を汲み取るよいメイドなのですよ」
「おや」
自分のかつての言い草をいいように使われて、ギュイオットは眉を上げる。
「ベッキングハム公爵さまに、私と懇意になるご意志はないでしょう」
「ちょっと女性が苦手な坊ちゃんなんだ、彼は。いろいろあってね」
「それは……、お察しします」
麗しさで知られ、かつては王子だったこと、剣を鍛えたこと、あの腕と双眸に捕らえられたいと願うお嬢さんがいくらいただろう。そういった方々が、どれだけ積極的な行動に出るか想像に難くない。
「オーディンのことを知ったきっかけとはなんだい?」
「御前試合です。私が王宮に入ったときの」
「ああ。オーディンがだいたい毎年優勝してる」
忠勇無双の名に恥じず、陛下や観衆の前での正々堂々とした戦闘が老若男女を魅了し、黄色い歓喜、野太い応援が飛び交い試合を盛り上げていた。
公正で、まっすぐで、見る者の胸を空くような剣技だった。
「あれは惚れるよね」
「絶技です」
普段だんまりのパウエルでさえ口を挟む。
だからシーラの向けるものは誰もに共通しているような、安っぽい気持ちなのだ。お近づきになれるなど、とんでもない。
「私は隊を組んで使うほうが性に合ってるんだよね。自分の腕だけではどうもなぁ」
純粋な腕力勝負では平均を越えないギュイオット。技術を駆使して上位には食い込むが、一対一では押し負ける。
隊同士の合同演習で指揮を取らせれば負け知らずなのに。