白い闇
こちらまでいらしていただきありがとうございます。
完結までの間にちょっとした戦争、戦闘、性的表現があります(ふんわりです)。
磨かれた床。エプロンを巻いたスカート。手入れをした両手。占められた視界に、革靴が無遠慮に入ってきた。王宮にいてさえ、目にするのは珍しいそれはそれはお高そうな靴。
「ねぇ」
直上から声が降ってきて、ゆっくりと視線を上げる。
目の端に、忠勇無双 “ The Royal” のオーディンと呼ばれる騎士がいる。彼からだけでなく、注目を集めているのを感じた。王、王妃、王太子、近衛兵、着飾った美女たち、横に並んだメイド仲間。彼らはあからさまに顔を向けたりはしないが、意識はシーラへ。
「はい」
眉は真っ直ぐ、垂れ気味な目は色気があると評判。日に焼けた肌と鼻腔の広めの鼻は彫りを深く見せている。やや大きな口は笑顔になると白い歯を覗かせて、異国の魅力あふれる。なるほど美男子、なのだろう。
イリクェオラル帝国では重婚が認められており、皇子は伝統として各国から妻を集める旅の途中だとまことしやかにささやかれている。
高位貴族の美女ばかりが集められたこの皇子歓迎パーティも、そのお膳立てのためだとか。国を出てもよいと希望の女性を募り、皇子に差し出して平和に帰ってもらおうという寸法だった。
それがなぜか彼女らを置いて目の前にいる皇子。用事を申しつけられるまでは動かない、壁に同化していた一介のメイドに一声を放った。
「名前は?」
瞠目した。
他の文化では知らないが、このローギア王国で王族が第三者を介さず女性と知り合いになることはまずない。王族が見知らぬ女性に直接名前を尋ねることは妻訪いに値するからだ。王族は王族以外の名前を安易に呼ばず、話しかけるときは身分や家名を使い、逆に貴族にしても御名を口にすることは憚る。
寵妾への打診も婚約者がいたり既婚であればそれとなく無難に断ることもできるが、シーラは恋人すらいない立派な独身。だけれども。
(名乗ってはだめ。)
なんとか一義でない回答を絞り出すために、頭を急回転させた。
「イリクェオラル帝国におわせられます。アベリー殿下、であらっしゃいます」
「僕の名前をきいたんじゃないよ。でも知っていてくれてありがとう」
作った澄まし笑顔が人間味を帯びる。
しまった。関心を引いてしまった。でも、ああ答える以外になかった。
「きみ、いいね。強くて理知的な瞳が気に入ったよ。声をかけるまで絶対に僕を見ようともしなかったね。媚びを売らないのは好感が持てる」
他国の皇子といえどローギア王国の重要な文化を学ばなかったはずはない。まかり間違ってもうっかりで皇子が未婚女性に名前をきいてしまうことがあってはならないからだ。
そしてこの口振り。
知っている。宮中で仕える女性は身元の洗い上げをされ特殊な教育を施された、姫と呼ばるるに足る立ち居振る舞いができる者しか置いていない。採用されるにも貞淑かつ賢女であることが第一条件であり、やんごとない方からいつ見初められてもおかしくない、ということを。だからアベリー皇子が自国に何番目かの正妻としてシーラを連れて帰っても問題はないのだ。
断るは不軌。
血の気が引いていく。喉がひくついて、背中に冷たい汗が滑り落ちた。
「僕の国においで。恬淡としている美姫が僕の愛で甘美に惚けるところを見たいな」
きっと幸せにするから、と自信たっぷりに手を差し出す。
「ローギア王国からはきみを連れて帰るよ。この手をとって。それからきみの名前を教えて?」
喉元に刃物を押し付けられた気分だ。一度は冗談で済んだが、二度目は回避不可。
震える手を持ち上げる。
「ーーは……い」
歯の根が合わない。脳裏に浮かぶのはつれない態度でかたい表情を浮かべる騎士。彼の目の前でこの求婚を受けるのは屈辱だった。裏切りだ。彼を大好きと言った口で、他の男との結婚に応じるのだ。まるでいままでの一切合切を嘘だと公表するのと同義。
どこかでカッカッカッ、とカウントダウンのような音がする。終わりが、近づいてきた。
「わたくし、は、」
シーラ・グリーンでございます。そう告げればいい。
自分の名前を忘れるわけがないのに、喉から出てこない。
カッカッカッ……。
世界が白む。
…………カツン。
こんな日を、予想できただろうか。
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連載の形は初めてなので不手際がありましたらすみません。
なにかあったらすぐに訂正したいと思います。
参考資料などは一番最後にまとめてご紹介する予定です。